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尖んがりジプシーの航路  作者: 下市にまな
第三章 チーム築城編
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無力

『いつ帰れる?』

 受話器越しに優里の力の無い声が響く・・・

『後2日で帰れるから・・どうやお母さんの具合は?』

自宅療養中の貴子が頭痛を訴え始めたのは10日ほど前の事であったが、櫂が出張に出かけている数日の間に頭痛は激しさを増し続け、看護に付き添う優里が異常を感じて即座に病院での検査に立ち会っていたのである。


『脳に転移してた・・・・』

 集中しないと聞き取れない程の声で優里が答える

抗癌剤治療での闘病生活も一段落の落ち着きを見せ、ゆっくりと通常の生活に戻ろうと家族に小さな安堵が芽生え始めていた矢先の出来事である。

櫂は始めて貴子が癌に侵されていると知らされた日よりも、遥かに大きな虚無感に襲われた。


『このまま緊急入院する事になっちゃたから優華も直ぐに来る・・・・・・私も付き添うね・・・・』

『分かった・・・俺も帰りは直行で病院に行く・・』

 櫂には優里を元気付ける言葉すら思い浮かばなかった。

直ぐに駆け付けられない境遇を呪いながら、締め付けられる思いで受話器を戻す。



新大阪で社員に解散を告げた櫂は、はやる気持ちを隠そうともせずに貴子の入院する医療機関へと急いだ。

病室の前まで来て足が重くなるのを感じたが、既に半分ほど開かれた個室部屋には横になる貴子の姿が見える。

就寝中であるかもと気遣ってソロリと病室に足を踏み入れたが、即座に貴子がそれに気付いた。

『櫂ちゃん・・・お帰り・・』

 力無い視線だけを櫂に向けながら、貴子は笑顔を作って見せたが直ぐに瞼を閉じて眠り込んだようである


『やっと薬が効いて、少しだけ頭痛が薄れたみたい・・・』

 優里は小声で櫂に説明した。

泣きたい時に傍に居てやれなかった・・・気丈に笑顔を見せる優里に櫂の心は押し潰されそうになる。


入院に必要な用品を買い足しに出かけたいた優華も病室に戻り、3人は静かに貴子を囲んで寝顔を眺める。

《結婚式からまだ一ヶ月も経ってない・・・・》

 綺麗に着飾って嬉しそうに拍手をしていた貴子の姿を思い返しながら、目の前の現実を突きつけられる。


『結婚式、ついこの前なのにね・・・』

 優華の呟く声が静かな病室に鮮明に響く

『もう随分と前に転移してたみたい・・・』

 優里の目はみるみる赤くなり、今にも零れ落ちそうな涙はかろうじて下瞼で受け止められている。

『お姉ちゃん、笑顔!』

 優華は毅然とした表情で優里を見たが、芯の強さを伺わせるその表情が、櫂には心の奥に終いこんだ優華の嘆きを読み取らせてしまうのである。


3人は寝息をたてる貴子の寝顔を暫く眺めていたが、うっすらと目を開ける貴子が再び櫂の存在に気付いた。

『櫂ちゃん、来てくれたんや・・・ありがとう』

『遅くなってすいません・・・少し眠れましたね』

 櫂は柔らかい表情を貴子に向けて笑う。

『優里・・・優華・・・お水をちょうだい・・・喉が渇いた・・』

『もう! 頭痛が出てからは子供みたいに命令ばっかりして』

 優華はそう言いながらも、貴子の口元にゆっくりと水を運んだ


『もっと冷えた水が飲みたい・・優華・・買ってきて・・・優里は冷たいおしぼりを用意して・・・顔を拭いて欲しいから・・・』

 矢継ぎ早に娘たちに指示を出す貴子は、無邪気な子供のようにも見える

『はいはい、急いで用意するね・・』

 優里と優華は慌ただしく病室を出た。


『櫂ちゃん・・・次の仕事はいつから?』

 冷たい水が飲みたいと言ったにも関わらず貴子は上半身を起こして、傍らの水を飲もうと手を伸ばす。

『仕事は気にしないで下さい・・・俺は何時でも此処に来ますから』

 櫂は慌てて貴子の背中を支えて答えた。

『ううん、櫂ちゃんは、しっかり仕事に行きなさい! 優里が何を言っても、男はすべき事に責任を持つべき・・・そんな櫂ちゃんに、優里を託したんやもの』

『それは・・・そうですが・・』

 ゆっくりと体を支えて横に戻しながらも櫂は返答に戸惑った。

『櫂ちゃん・・・優里を宜しくね・・』

 貴子が再び瞼を閉じたので、それ以上は返答出来なくなってしまった。


投薬の効果であろうか、寝息を立てて眠り続ける貴子の表情には、ようやく苦痛から解放された柔らかさがあった。

『久しぶりに深く眠れてる・・・このまま起こさずに帰るよ』

 優里は付き添いに残る優華に告げてから、櫂と共に病室を出た。

『仕事からそのまま病院直行やったから・・疲れが取れないね・・ごめん』

タクシーの中で優里が櫂を見ながら作り笑顔を向けたが、むしろ疲労が蓄積しているのは優里のほうである。

1週間ぶりの優里は頬が痩けて、全体的に小さくなった印象さえ受ける。

『俺のほうこそ、こんな時に仕事ばっかりで・・・』

『櫂ちゃんがお母さんの病気の治療をする訳やないでしょ・・大丈夫・・優華も居るから、それよりも今日はもう夕食を作れそうにないから外食でも良い?』

優里は陰になりがちな雰囲気を誤魔化すように、一際明るく振舞った。


《病院でも・・・俺に対してまで明るい演技を見せなくてもいいのに・・・》

明日からの展示会運営は櫂にとって一つの山場を迎えようとしていた。

新人3人のコンサルタントセールス昇格が懸っている事に加えて、糸居の主任降格が懸った催事でもあるのだ。

昇格と降格阻止を乗り越える事が、この先のチームの成長の節目となる事は明らかであった。

突きつけられる貴子の病状悪化と、肩に伸し掛る社員の生活確保へのジレンマは、容赦無く櫂の心を萬力のように挟み込んだまま次の言葉を生み出す思考を停滞させた。



帰宅後に泥のように眠り続けた優里であったが、翌日に櫂が目を覚ました時には既に朝食を準備している最中で、枕元には櫂のキャリーバックと綺麗に畳まれた出張日数分の着替えが置かれていた。

『私も早めに出るよ、優華と交代してやらないと!・・・・櫂ちゃんも急いで準備して~』

 昨日の雰囲気とは別人のような颯爽とした優里が櫂を急かした

『・・・おはよう』

 呆然とする櫂は暫く優里の後ろ姿を眺めた


櫂の様子を見ているかのように優里が振り向く

『ほら早く・・ お母さんは元気になる! その為に先ずは私が元気を出す! 櫂ちゃんは仕事に専念する!・・ 分かった?』


《俺が先に言ってやるべき事を・・・情けない!》

 櫂は紅潮する顔を隠すようにキャリーバックに衣類を詰め込んだ。




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