AM
午前7時・・・・・
今年はまだ雪が降ってなかったが、嫌でも冬の到来を感じさせる程に京都の空気は肌を突き刺した。
櫂は丸太町に降り立つと、時計を見てから催事ホールのある北方向へとゆっくり歩き出す。
思った以上に距離を感じたが、KB京都の建物が見えてくるまでに時計の針は10分程度しか進んでいない。
《学生なら10分、年配層なら15分・・、やっぱり中間地点に3名・・》
考え事をしているうちに集合場所のホール入口が見えてくる
既に数名は、櫂よりも早く到着しているようである
『おはようございます!』 牧野チームに所属する新人男性社員が走り寄ってきた。
『おはよう、何名揃ってる?』 櫂は手持ち無沙汰に入口前にたむろする社員の人数を指で数える
『はい、6名です』 男性社員はまるで兵隊のように真面目な口調で櫂に報告した。
今回の来日展にはワールドアート総勢54名の営業マンで取り組むのだが、その中で櫂が指示を出して動かすのは33名の社員である。
ホール内で営業に特化するのは既存の課長5名と新人課長の池谷、各チームから一名ずつの主任(桝村チーム2名・池谷チーム0名)と各チーム主任に次ぐ売上のコンサルタントセールスが1名ずつの計18名・・
加えて、所属チーム未定の林葉主任とコンサルタントセールス糸居を合わせて総勢20名体制で挑む。
残念ながら九州支社はまだ来日展に参加出来るレベルには達しておらず今回は不参加となる・・・・
勿論、河上はホール内で営業総責任者として指揮を取る。
櫂は33名の内、10名だけに午前7時15分集合を伝えていた。
やがて櫂に追いつくようなタイミングで残りの4名もホール入口前に到着した
『いや~もう森田主任って歩くの早すぎるから追いつけませんよ~』 4名の先頭に立つ水商売風の女性社員がしゃがれ声で笑う。
年齢は20代後半か・・櫂よりは遥かに年上である。
早朝の集合を指示された10名のメンバーは櫂が作為的に選んだが、その顔ぶれは見事にバラバラである。
入社3ヶ月未満の男性4名と女性1名・・・癖のありそうなコンサルタントセールス男性1名・女性4名という顔ぶれである。
新人の5名もほとんどが櫂よりも年上で先ほど駆け寄ってきた社員が唯一の年下である。
コンサルタントセールスに至っては全員が櫂よりも3歳以上の年齢差がある。
『その前に、朝はおはようございますとお互いに挨拶するもんやろ』
櫂は落ち着いた口調で水商売社員を窘めた。
性別・年齢は営業の世界では上下関係には影響を与えない、揺るぎないトップセールス数字を叩き出す櫂の言葉は入口前にたむろする他の社員達にも届いたようである。
『すいません・・・おはようございます』 水商売社員に続いてゾロゾロと集合していた社員達が櫂の前に集まった。
『今日は早くからお疲れ様です・・・今から手短に話す内容が今回の来日展の成功を握る事になります』
そう言うと櫂は輪になった社員の顔をゆっくりと見廻して一呼吸の間を空けた。
全員の注目がこの一呼吸で櫂の表情に集まったのを確認してから再び櫂は話し始める
『今回はこの外回り専属部隊への振り分けに不満を持つ者もいるでしょう・・自分ならホールに入りさえすれば必ず売れるはずなのにと・・・・もしくは全員がそう思って当たり前です・・俺も含めて・・・・馬場はどう思う?』 突然の櫂からの質問に馬場と名出しで問われた水商売風社員は少し狼狽えた。
『はい森田主任は勿論・・売上を残す事は出来ると思います・・・・私も自信はあります』 櫂の思った通り、このタイプの人間らしく率直な意見が帰ってきた
『そうやな、馬場の言う通りや・・・丸山も川田も岸岡も立花も皆がそう思って当然やな・・まだアシスタントアドバイザーの川垣も庄野も上井も三島も木原もや・・・俺自身もホール内に入れば誰にも負けない数字を残すと断言するで』
その場の誰もが、ほとんど今まで一緒に仕事をした事が無い櫂が、10名の名前を覚えている事に驚きながらも不敵に笑うその表情に圧倒されそうになる。
『俺は今回の外回り専属部隊の件でホール内には足を踏み入れるなと河上部長から釘を刺されてる・・
それは解る・・・集客が命綱になる場所や・・・それでも俺はホールに入るで・・こじ開けてでも!
でも俺が入るのはお前達の後や・・手が足りないから帰ってきてくれとホールから連絡させてやろうと思う! それで、絶対に自分が自信を持った通りに成績を残すと言い切る』
10名はこの自分達よりも若いであろう青年の言葉に静まり返った
『河上部長は俺を信じてこの役を与えてくれたと思ってる・・・俺が拗ねようが、サボろうが最後まで信じたままやろう・・・・俺も考え抜いて、此処に居る10名を信じたから集まってもらったんや・・・ 拗ねて何も掴まずに終わる奴もおるかも知れん、この1週間で掴めるはずの大事なもんがあるとアガク奴もおるやろう・・・全員ひっくるめてホール内の奴らよりでっかい達成感を掴もうと思うんや・・だから力を貸して欲しいと信じた10人にお願いするしか無いねん』
『でも、何でこの10人なんですか?・・・教えて欲しいです』 10人の中でも一番年長の営業経験者である男性社員の岸岡が、ふてぶてしくもっともな質問を出す。
『簡単や、コンサルタントセールスの5人は皆が曲者やろ、お互いの顔を見たら一発で分かるやろ・・・だから不平不満も他の社員より多く出てくるはずや、特に営業経験者の岸岡なんかはな・・・俺はその不平不満を聞いて学びたいんや・・確かに的を射た立派な考えやな~とか、こいつ年齢の割に狭くて貧しい考えしか出来ないんやな~とか、こいつは心で膿を溜め込むだけの卑怯な奴やな~とか・・・・それを全力で今回の外回り業務に反映させていこうと思うねん。 だから文句は全部聞くでっ・・・俺を納得させてくれたらリーダー譲るわ』
質問を出した岸岡は馬鹿正直な櫂の返答に口を開けたまま黙るしかなかった。
お願いするしかないと低姿勢を見せた後に、先回りで全ての逃げ道を潰された上に、プライドをくすぐる挑発まで受けてしまったのだ。
こうなると5人は率先して集客業務に勤しまなければ自分で自分の顔に泥を塗る事になる。
さらに櫂は続ける
『アシスタントアドバイザーの5人は各課長に事前に相談して、一番真面目で負けず嫌いな奴は誰ですか?って聞いたんや・・・そしたらお前達の名前が挙がった・・・期待の新人さんって事や・・・でも俺はひねくれてるから、未だに課長さん達の選択を信じき切ってはいないんやわ・・・・なんや~あの課長は人を見る目もないのんかな~って後で思ってしまうよりは、最初に少し疑ったほうが俺も傷つかなくていいやろ・・・でも、聞いた話が本当なら此処にいる5人のコンサルタントセールスを出し抜いて大変身する所を見れるかも知れんし、そうなると最高やとも思ってるで』
5人のアシスタントアドバイザーも先に逃げ道を塞がれたばかりか、プライドをくすぐる挑発を受け入れるしかない状態へと追いやられてしまったのである。
『岸岡もそれ以外のメンバーも、今の説明で理解してもらえたかな?』 櫂はいたずらっぽい笑顔でメンバーを見渡した。
『分かりました、じゃあ私も全力でリーダーを奪いに行きます』 岸岡は苦笑いで櫂に返答し全員がそれに続くかたちで、ようやく輪に熱を入れる事が出来たのである。
『みんな、ありがとう』 そう言ってから頭を下げる櫂に皆がやめてくれと取り囲む。
『よし、じゃあ早速仕事や!』 櫂はそう言うと分厚い自分の鞄から、既に色分けのマジックで印を付けた大量の配券束を引っ張り出した。
『その鞄って、全部配券なんですか?』
『そらそうやろ、今の俺にこれ以外に入れるもんなんか無いやろ?』
先程までとは全く違う、とぼけた表情の櫂に次第に選ばれし10名は引き込まれてゆくのであった。
『ええか、今から夕方の集客の仕込みや! 3チームに分散してもらう・・・
京都駅・四条駅・河原町駅に分かれてCSとAAは組になるんや・・それと、興味持ってそうな人には場所と閉場時間を明確に伝えるんやで、後、送迎バスの発着場所も伝えるのを忘れるな』
そう言うと櫂は鞄から手書きのタイムスケジュールを引っ張り出して拡げて見せた。
『ええか、この時間の河原町は駅方向から・・・・・・』
びっしりとメモ書きされたタイムスケジュールは所々が破れていて、時間帯別にどの方向からのどの客層にどれだけの枚数を配りきるかまでが書き込まれており、いかに櫂が考え込んで戦略を練ったかが推察出来る。
《この人、本気でやるんやな・・》 自分より僅か一歳年上の櫂に、どんどん引き込まれる自分がいると川垣は自覚すると同時に感化されてゆく心地よさを味わっていた。
『よし、そろそろ来るはずや』櫂が腕時計を見て呟く・・・程なく櫂が頼んでおいた2台のタクシーがやって来た。
『9時半から外回り部隊全員揃っての朝礼やから、それまでは仕込み配券を全力で頼む、今日はこの仕込みが大きなポイントやから徹底的に配ってや!』
『森田主任はどうされるんですか?』 川垣が伺うように尋ねる
『俺は残りメンバーを振り分ける・・帰ったらこの10人が担当するメンバーが決まってるからな! この10人がポイントリーダーになるんや! 引き締めろよ』
AM7時30分・・・・
僅か15分間ではあるが、10人は自分達が想像した以上の責任感を持ってこの業務に望まなければならない事を知り、これからの1週間に対してのマイナスイメージを払拭してタクシーに乗り込んだ。
櫂はタクシーを見送った後、溜息をついてタバコに火を点けた・・・
《お客さん相手にするよりも、よっぽど疲れるわ・・・》
AM10時からはホールメンバーが搬入開始、そして12時からの初日開場というスケジュールである。
櫂は外回り部隊の残り23名を迎え入れるべく、ホール入口で次の戦略をロールプレイングした。