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尖んがりジプシーの航路  作者: 下市にまな
終章
160/160

晴天に

5年後・・・・・京都山城地区 【夏】


走行距離15万キロを超えたおんぼろカブは、早朝から激しく降った雨のせいでぬかるんだ畦道をものともせずに泥を跳ね上げながら走破してゆく

木津川の土手沿いに広がる広大な田園では、すっかり晴れ上がった青空から容赦ない太陽光を浴びながら農作業に勤しむ人々が汗に塗れて大地と闘っている

美しく区画整理されたこの田園の畦道を、スーツ姿のままカブに跨って走り抜ける青年は徐にブレーキをかけて停車した


(ザ・・ザザ・・・さあKBラジオがお届けしております 思い出の名曲リクエスト・・ザザ・・いよいよ・最後の曲です・・・京都府城陽市にお住まいの・ザッ・ザザ・・んからのリクエスト・・[あの日の朝日]です・・ザザ・・懐かしいですね~・・僕達の青春時代のアイドルでしたよ・・小西唯花さん、今はYUIKAさんに名前を変えて、アジアに進出後は活動の場を広げてるみたいですね・・ザザ・ザー・・・)


《おいおい、百均ラジオはやっぱり聞き辛いな・・》

 ヘルメットの隙間に差し込んだイヤホンを抜き取った青年は、跨ったバイクから降りてタバコに火を点けた

『此処は何処やねん?・・・参ったな・・俺は笹舟号と迷子や・・・』

腕時計を確認して時間が迫っている事を再認識するが、慌てても仕方がない・・・自分の方向感覚の無さには慣れているのだ・・・青年は動作を止めて咥えタバコのまま農作業に勤しむ人々を眺めた


『おい、兄ちゃん! こんな忙しい時期に田んぼの真ん中でボサ~っとされたら邪魔やで!』

 チープなトラクターのクラクションを響かせた後で、運転席の初老男性が大声で訴える

『ああ・・すいません!』

 青年は素直に返事をすると、胸ポケットから簡易の灰皿を取り出して吸殻を放り込んでから笑顔で続けた

『おっちゃん、木津川の向こう側に渡りたいんやけど・・この土手を越えたら渡れるかな?』

『何や? お前は信金の新人さんか? まだ道を知らんみたいやのう・・向こう側に渡れる事は渡れるぞ・・・バイクを担いで泳げる自信があるんやったらな・・』

初老男性は可笑しそうにゲラゲラと笑ったが、それを遮るように遠くに停車した軽トラックからクラクションが鳴り響く

『社長~ いつまで土をなぶってるんです~ もう直ぐ組合の会合の時間ですよ~』

 作業着を着た軽トラの運転手は口元に両手掌を宛てがって大声で話しかけてきた。

初老男性もトラクターのクラクションを鳴らしてから億劫そうに手を挙げてそれに答える


一連のやり取りを静観していた青年は、バイクを離れて初老男性のトラクターに歩み寄ると、静かな眼で真っすぐに初老男性に視線を合わせた

『な、何や・・文句でもあるんかい!』

 初老男性は身構えたが、青年はポケットから名刺入れを取り出すと満面の笑顔を浮かべる

『あのね、社長! 俺は信用金庫の人間とは違いますよ・・・それに大抵の道は覚えてる・・只、ちょっと方向音痴なのと・・知らん道を見つけたら走ってみたくなるだけの話で・・今日はこの田んぼの真ん中で迷子になってたのは事実やけど・・・』

『トラクターを運転する儂に、急に社長とは変な事を言う奴やのう・・それで・・・・方向音痴で知らん道を走って迷子になるお前は何者や? 真っ黒に日焼けしとるがスーツ姿やしのう・・信金さんに見えるのもしゃあないやろ』

『俺、視力には滅茶苦茶自信があるんですよ! 南部造園6号車・・・さっき大声で叫んでた人が乗ってた軽トラにはそう書いてありました・・会社は此処から近い筈や・・携帯電話で連絡せずに口頭で伝達に来る位やしね・・最低でも6台以上の社用車を動かして商売をしている・・社長が田んぼで作業をしている日曜日でも、さっきの人は作業着を着ていた・・複数の現場と工期に追われて日曜日もシフトで社員が出社する事から従業員数も多く抱えているでしょうし、ある程度手放しで仕事を任せられる番頭さんも存在していると予測出来ます・・しかも社長は同業者か何らかの組合の理事に名を連ねてる・・・今日はその会合でしょ?』

『・・・な、生意気な奴やのうお前!』

『はい、皆様にもそう言って可愛がって頂いてます』

 青年は笑顔で名刺を差し出した


『総合保険コンサルタント櫂・・代表者 森田 櫂 ・・・何や、保険屋さんかいな・・・うちの会社は長年の付き合いの代理店に任せてるからな・・それにな、保険なんかどこの保険に入っても内容に大差はないやろう・・』

『ハハハ・・俺はまだ保険を勧めてませんけど、社長は断るのが早いんですね・・ヘコヘコとお願い営業なんかするつもりはありませんからご安心下さい!・・それにしても社長は面白い事を言いますよね・・・』

『何がや?』

『だって社長は米なんかどれを食っても同じやと思って、農作業をされてる訳やないでしょう?』

 櫂は惚けた表情で問いかけた

『お前の保険は違うとでも言うんかい!』

『さあ? 興味を持っていただけたならその名刺は捨てずに置いといて下さい・・会社のデスクの引き出しの隅に放り込むだけでも良いですよ・・時間もあるし、目から鱗の話でも聞いてみるかと思ったら連絡して下されば良いです』

『えらく大口を叩くやないか・・・そこまで扱う保険に違いがあるんかい!』

『確かに保険会社によって商品に違いはありますけどね・・それよりも俺を通して保険に入ってもらう事が違いに繋がる・・・もれなく俺が付いて来ますから!』

『けっ! 気が向いたらな・・・・この畦道を真っ直ぐ行くと最初の交差路に用水路が並行しとる・・・そこを西方向に行けば国道に出るわい・・・そこまで行けば阿呆でも道はわかる!』

『ありがとうございます、これで俺も約束に間に合いそうです・・社長も会合の時間が迫ってるんですよね?・・・・お気を付けて!』

 櫂は小走りでカブに駆け寄ると、慣れた動作でエンジンをかけて笑顔でその場を立ち去った


『社長~』

 再び先程の軽トラがやって来て、時間が迫っている事をアピールする

『お~う!』

 男性は大きく手を振ってそれに答えると、もう一度手渡された名刺を眺めてからポロシャツの胸ポケットにグイっと押し込んだ


《用水路はあるけど、西ってどっちやねん?  京都の人間は直ぐに西とか東という言い方をするからな・・・もっと左とか右って説明してくれよ!》



ワールドアートを飛び出した櫂は、丸裸で世間に放り出される事でいかに閉鎖された視野の狭い世界で生きて来たのだろうと痛感した 


《世間は広い!》

その中で今まで培った自分の力を試してみたい・・そうだ、一人でどこまでやれるのか・・・・

それが保険代理店業を選択した理由である

外資系保険会社の研修社員として5年間を過ごし、一定の成果を残した事で念願の個人事業主として独立代理店の看板を掲げられるようにはなったが、未だに心の奥底から沸騰するような情熱を持つまでには至っていない。


前を目指せと自分を奮起させながらも、櫂を悩ませ続けたのは制御不能の燃え尽き症候群である・・

自分が選択したこの新しい仕事の正義を探求しながらも、頻繁にワールドアートの催事場で営業に没頭する自分の夢を見ては目を醒ます・・・その都度、自分に女々しさを感じては落ち込んだ・・


永久凍土のように深層心理に居座るこの無意識のワールドアートへの焦がれが、少しずつ解凍し始めたのは最近になってからである・・・

《そう言えば、最近は夢を見んようになったな・・》

 人には自分の意思だけでは制御できない傷跡が残る事があるのだろう・・それでも時の流れは少しずつその傷を癒し、次への活力を生み出そうと足掻く勇気を与えてくれるのだ


櫂が夢に悩まされなくなった頃・・・・ワールドアートは破産を申請し、その存在を消滅させた。





『おら~! 俺の兄ちゃんはな~、強いんやぞ~! お前等なんかに負けへんからな~!』

 額にくっきりと血管を浮き上がらせて力いっぱいの声援を送る保育園児に、同じチームの応援に駆けつけた保護者までが思わず笑いを零してしまう

令央は大きめのヘルメットを目深に被って、苦笑いを隠す様にネクストバッターサークルに向かった


『こらっ、兄ちゃんが恥ずかしがってるやろ・・優雅はもう少し静かに応援しようね・・』

 母親の優里は愛娘の歌音をあやしながら、片手で優雅の口元を押さえてから周囲の保護者に会釈した

『いいのよ、これ位に元気な方が・・・このチームはのんびりした子が多過ぎるのよ・・』

 我が子の所属する少年野球チームの不甲斐なさに悔しさを感じているのか、優里の傍らに立つ保護者の一人が優雅を援護するように笑いかける


京都山城地区は時代の流れを感じさせぬ程に野球熱の高いエリアである

今日はこの地区に所属する少年野球チームの低学年部員を対象とした対抗戦が開催されているのだ

残念ながら初戦から地域で一番の強豪チームと対戦する事となったのは、令央の所属する地域最弱チームである

試合は4回裏・・玲央のチームの攻撃であるが、既に10対1と大差を付けられてしまっている



『えっ! 令央も野球が出来んの?』

 低学年にしては体格の大きいクラスメートは見下すように令央に問い直した

『ふ~ん・・小っこい癖に俺等のチームでやれるんかよ?』

 体格の大きいクラスメートを取り囲む数名も即座に令央に絡み始める

『やってみたいねん! 出来ると思う!』

 一際小柄な令央は、地域で一番の強豪チームに所属するクラスメート達の悪意を意にも介さずに答えたが、内心では自分にも理解出来ない感情が膨れ上がっている


『まあ良えわ・・それなら俺らのチームに入れたるわ』

 強豪チームのスラッガー候補・・・それだけで少年期の地位は確立されるものである・・

取り囲む数名と視線を交わしながら、有望選手は令央に薄ら笑いを向けた

『やっぱ、お前等のチームなんかには入らん! 別のチームにする!』

 生まれて初めて湧き上がる闘争心を感じた令央は自分の言葉に驚いたが、ポカンと口を開けるクラスメート達に笑顔を残して教室を出た


『って言う事らしいのよ・・櫂ちゃんは野球経験者やろ?・・だから一緒に令央の入れるチームを探してあげて欲しいんよ・・』

 仕事から帰宅した櫂に優里は事の経緯を説明したが、令央も期待に溢れる眼差しを櫂に向ける


《俺は野球を一度も令央に強要した事は無いぞ・・・いつの間に興味を持ったんやろ?・・》


好きな事・やりたい事は自発的に見つけ出すべきだ・・・そう考える櫂は我が子に何かを強要したり、誘導したりという行為をした事は無い


『父ちゃん・・・一緒に探してや! 野球も教えて欲しい!』

 令央は両肘をテーブルに乗せて顔を近づける

『何で教えて欲しい?』

『上手くなりたいからに決まってる!』

『何で上手くなりたいんや?』

『そっちの方が楽しいに決まってる!』

『それだけか?』

『アイツ等にも勝ちたい! やっつけたい!』

 小学校低学年・・・動機は至ってシンプルである・・が、令央の眼球の奥に決意だけは読み取れる


《驚くな~・・知らん間に一丁前の顔をするやないか・・・それに、血は争えんわ・・・親子3代で瞬間湯沸かし器とは洒落にもならん!》


『令央、父ちゃんはな・・・教えてやれるけど、本気で教えてしまうぞ! 令央がやっぱり野球は面白くないと思ってしまうかも知れん・・その時は令央は野球を辞めても良えし、もっと頑張ろうと思っても良いんや・・けどな、辞めたら父ちゃんは二度と令央に野球は教えへん・・それでも良えか?』

『わかった!』

 こうして令央は自宅から近い強豪チームを選択肢から外して、わざわざ隣町の最弱チームへの入部を決めたのだ



櫂は排気音のけたたましさに反して速度の上がらない笹舟号を操って、腕時計を確認しながら古びた小学校の門をくぐり抜けた

《何とか間に合った~・・・》

最弱チームの本拠地であるこの小学校には一際大きなグラウンドが有る

そのグラウンドの奥に、対戦する頼りなげな小学生達を確認した櫂は、校舎から続くグラウンドへの石造りの階段を一足飛びで駆け下りた

早朝の雨の中で午前の時間帯を貸し切っていた少年サッカーチームが踏み荒らしたのであろう、彼方此方に無数の足型が残っていてグラウンドコンディションは決して良いとは言い難い・・・・おまけに一輪車の置かれた砂場の砂がごっそりと無くなってしまっている

《父兄が砂場の砂を放り込みやがったな・・・》

何としても我が子達に試合をさせてやろうという親心なのであろう・・・

野球熱の高い地域の親は、時として考えられない行動を起こすものだ

遠目に見ても、試合を行っているダイヤモンド内の土壌には歪な色彩の違いが見て取れる

《あ~あ、セカンドベースの手前なんか完全に砂場状態やないか・・・》

櫂はそんな事を考えつつ、強烈な日差しで埃っぽくなった細かな砂が革靴にへばりつくのを気にもせずに父兄の集まる選手ベンチの後方を目指した


『ああっ! 俺の父ちゃんや!』

 目敏く櫂を見つけた優雅が大声を出して駆け寄る

優雅を抱き抱えた櫂はそのまま優里の横に並び立ってから、スコアボードを確認した

『おおっ、激負けしとるな! この回で点を入れんかったらコールド負けやないか』

『コールド・・何それ? 固まるの?』

 スポーツに対してはちんぷんかんぷんな優里が首を傾げるが、櫂が説明する前に隣の保護者が声を上げた

『森田さん、何そのズボン!』

『はあっ?』

 声を上げた保護者の指し示す先を確認すると、櫂のスーツのズボンの裾には大量の引っ付きむしが付着していた

『ああ、これね・・・たぶん畦道を走って来たからその時に付いたんかな・・・』

『畦道って?・・・ちょっと~ 父ちゃんは本当にちゃんと仕事は出来てるのかな~』

 優里は歌音の顔を覗き込みながらクスクスと笑った

『一応、予定の契約は決めたし、帰り道にちょっとした見込み先との出会いもあったしな・・』


説明をしようと話し始めるが、又もや櫂の言葉は割って入る声に遮られる

『父ちゃん!』

 声の主はネクストバッターサークルに居た筈の令央である

試合中にも関わらず、自分の父親の登場に駆け寄るところが如何にも低学年らしくてそれを咎める者も無く、応援席からはクスクスと様子を見守る父兄の笑い声が漏れ聞こえる

櫂は黒光りする程に日焼けした顔を真っ直ぐに向けてくる令央に視線を合わせる為に膝をついて屈み込む


『どうした令央』

 令央の真剣な目に真摯に答えようと、櫂の表情は柔らかさを湛えつつもしっかりと令央を見据える

『アイツ等・・・凄い強いんやけど? めちゃめちゃ負けてるんや! たくさん点数を取られてまうんや・・・父ちゃんと練習したのに!』

『そうやな・・・今は負けとるよな・・・アイツ等の方がもっと練習を頑張ったんやろうな・・それで・・ 令央はどうするんや? お前は何をしたら良えと思う?』

『アイツ等より、練習する・・』

『そうや! 父ちゃんも賛成や! けどな・・まだ今日の負けは決まってないやろ! 最後まで闘ってから頑張る奴と、しんどい時に闘わんと明日から頑張ると言う奴はどっちが強い?』

『わかった!』

『父ちゃんと一緒に沢山バットを振ってきたやろ? その頑張り分は全部出してこい! お前は大丈夫や・・・だって勝ちたいと思う気持ちを誰よりも持ってるんやぞ!』

『よしっ!』

 令央は納得したのか、再びネクストバッターサークルに戻って静かに打順を待った



『痛い~』

 令央の目の前でデットボールを尻に当てられた少年は巨体をゆらして泣きじゃくった

『コラッ! 男のくせにいつまでも泣くな!』

 先程から櫂達の横で一緒に応援していた保護者が我が子に激を飛ばすと、泣きじゃくる少年は肩を上下させながらもファーストベースへの出塁を済ませた


《さあ、これでツーアウト・・ランナーは出たぞ・・・令央、全力で行け!》

 俄かにコールド負けを逃れるチャンスが到来した事に、ベンチもそれを応援する保護者もざわめき始める


『大丈夫かな? 令央!・・・頑張れ!  ホームランで良いよ!』

 野球ルールを全く理解していない優里は、思い浮かんだ野球用語を口に出して応援するが、バッターボックスに入る令央は苦い笑顔を見せるしかない

『おいっ! お前らなんかな~、俺の兄ちゃんが・・・』

 再び闘争心に火が付いたのか、大声を出して野次を飛ばし始める優雅を櫂は肩に乗せて静かに言って聞かせる

『優雅、兄ちゃんをしっかり見とけ・・・・信じて応援するんや・・・お前の兄ちゃんは強い!』


バットを構えた令央は、あの日と同じように薄ら笑いを浮かべるピッチャーマウンド上の有望選手と対峙すると、黒光りの褐色の頬にうっすらと赤く紅潮した色彩を浮かび上がらせて沸る闘争心を表現した

ズバリと低めにストライクを投げ込まれた令央は、ブンッと空を切って空振りをするが、その表情を変える事なくマウンド上のピッチャーを見据えたままである

 令央のその冷静な表情が相手ピッチャーを逆撫でしたのであろう、2球目は球速を上げながら高めに大きくコントロールが乱れる・・

キャッチャーは球速の上がったボールに手を伸ばしたが、後方に逸れたボールはガシャリとバックネットにあたってから転がった

『走れ!』

叫ぶ令央の声に、先程まで涙を浮かべていたファーストランナーは思い出したかの様にセカンドベースを目指して走り出すが、転がるボールを掴み上げたキャッチャーも慌ててセカンドに向かってボールを投げ返す


タイミング的にはアウト・・・ランナーは滑り込むどころか、ベース手前で速度を落としながらセカンドベースに到着したが、見事に投げ返されたボールはフカフカとした砂場の砂にめり込んでピタリとベース手前で止まってしまったのだ。

《ぐわっ! ハラハラもんやで・・・何とか命拾いしたって感じや!》


『来いっ!』 

 気迫を込めた令央の声がグラウンドに響くが、その小さな体に不釣り合いな大きなヘルメット姿は対峙する巨体のピッチャーと比較すると大人と子供である

《一丁前の集中力やないか! 負けるな!》

 おそらく令央には周囲の音も聞こえていない・・・自分と相手ピッチャー・・いやっ!・・自分と向かってくる白いボールだけの世界観の中に居るであろう

何度となく自分を磨り減らしながら集中力を頼りに闘ってきた櫂には想像出来るのだ

相手ピッチャーも何度もグローブにボールを叩きつけながら自分の意識を高めてゆく・・


《次で決着や!》


ポコーン・・

間の抜けた音と共に令央の打球はフラフラと空に向かって飛んでゆくが、相手の野手も中途半端な落下点を目指して落ちてくるボールに追いつこうと必死に走る

『俺が取る!』

 後方に向かって走るショート野手が声を上げたが、その足は踏み荒らされた後に歪に固まった足跡に躓いて転倒してしまった

ボールは地面に接地すると尚もイレギュラーバウンドで野手の居ない空白スペースへと転がってゆく

最弱チームを応援する保護者の歓喜の声が響く中、1点を返した令央はセカンドベースを目指して必死に走り続ける

相手チームも転がるボールに追いついてセカンドベースに向けて投げ返そうと拾い上げた

『走れ~!』 

 保護者の祈るような応援が響き続けるが、振動でズレた令央のヘルメットはその視界を完全に塞いでしまう

ヨタヨタと視界を無くした令央は、セカンドベースの手前で砂に足を取られてバタリと転けたが、小さな腕を目一杯にセカンドベースに伸ばしている

相手野手も返球されたボールをグローブに掴んだまま、塁審の判断に視線を向けた

先程までの歓声が嘘の様に消え去り、塁審の声を待ちわびる静寂が訪れる


『セ・・・セーフッ!』

 再び歓声が空気を揺らしてグラウンドに響き渡った


『どうなったの! もしかして勝った?』

 相変わらず優里は的外れな質問を櫂に投げかける


『いいや・・未だに激負け中やで・・・けど、令央は小さな勝利を経験したと思う。 負けてもな・・・その中で、諦めんと小さな勝ちを積み重ねる事の大切さを知った筈や・・俺もお父ちゃんとして負けられへんな! まっだまだ成長を楽しんでやるぞ!』




晴天はその声を吸い上げてやろうと雲を吹き飛ばす


小さな一歩を踏み出した少年はヘルメットのツバを持ち上げて『かち~っ!』と叫んだ



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