無自覚
櫂の所属する東海支社は今回の櫂の転勤参入によって組織が再編成され、支社長である加山の補佐役には常設店舗を任せる安口課長・・それに加山が課長時代から手塩にかけて育て上げた女性課長の岩崎が居た。
櫂はこの2名の課長と共に東海支社強化を計る為の中途社員募集業務に追われている
支社長であった九州時代の櫂の募集実績は、他のどのエリアよりも特出しており、その手腕をこの2名の課長に教えてやってくれと加山には言われているのだ。
『私、ブースの会社説明会なんか初めてです・・・森田課長! 今日は色々と教えてくださいよ』
『僕にも色々と教えて下さい』
まだ若い岩崎の素直な言葉に安口も相の手を入れるが、櫂は安口の言葉に本心が無い事などお見通しである。
上辺の共鳴だけで自分の存在を形成する輩には、どこか共通の軽薄さが漂うのは不思議である
《波乗りコウモリ君め・・・》
加山には懐いている顔を見せてはいるが、虎視眈々と支社長クラスの座を射止めてやろうと、普段から棚橋の腰巾着として付きまとっている安口をどうしても櫂は好きにはなれない
『ほんじゃ、初っ端のブース説明は俺がやるから、2人はそれを見て盗んでくれる?』
櫂は2人に言うと、不景気の中で就職難民となった聴衆が集まり始めたブースの壇上に立った
《この東海エリアまでが不景気の影響に左右され始めてるな・・・》
櫂は集まった聴衆の中に若者が多数含まれている事を確認して、これからのワールドアートの生存を賭けた闘いの先に暗雲が渦を巻いている事を悟った
『今日は当社に興味を持って頂きましたので、隠し事無くぶっちゃけます! そのつもりで聞いて下さいね!』
話し始めた櫂の声量は明らかに他のブースで説明する企業の採用担当者とは違っていた
《何これ? 企業説明って言うより、もう演説やん!》
岩崎は前のめりの姿勢で櫂がこれから話す内容に興味を持った
『東海地区も不景気ですね・・今日の説明会には当社以外にも有望企業が沢山有るけど、皆さんはどうして私の話しを聞いてみようと思われました? 聞き耳を立てると言う事は知らない情報を集めたい要求が皆さんの中に有るからですよね? 企業説明の前に、手っ取り早く皆さんの質問に答えようと思います・・・ほんじゃあ質問を受ける前に、ザックリと簡単な説明だけ・・・当社は版画を展示会場で売る仕事です・・分かりますか営業職です・・・出張が多く・・売れなければ居心地が悪くなるのも一般的な営業会社と同じです・・では、質問を受けますよ』
あまりに乱暴な滑り出しに前のめりになっていた岩崎も唖然とするが、即座に挙手する数名が現れる
『はい・・では、最前列で意欲に溢れてそうな貴方から・・』
櫂は砕けた態度で挙手した女性を指名したが、もうこの段階で聴衆の意識は櫂に集中し始めている
『営業職と仰言いましたが、基本給は有りますか・・・それともフルコミッションですか?』
『ほうっ! 良くご存知ですね・・彼女の言ったフルコミッションって言うのはね・・売ったらその金額に対しての報酬は大きいですけど、売れなければ給与は支払われない制度の事ですね・・当社はありますよ基本給・・・・だけどずっと売れない社員に給与は払えないですね・・貴方が社長ならいつまでもそんな社員に給与を払いますか? そうです払いたくないですね・・当社も3ヶ月で一定の結果を出せなければ基本給はガクリと落ちますよ・・最後通告ですね、無言の・・・はい、皆さんの顔色が曇りましたね・・当然です、不安になる! 世間的に常識を逸脱しない話ですけど、何故顔色が曇るんでしょう? 自分に限りなく甘い好条件の企業を探しているからですね・・違いますか? 当社が探し求める人材は・・表情の曇らない人じゃあ無いですよ・・怖いけど・不安だけど・・それも承知の上で自分の可能性にチャレンジしてみたいと心を高揚させられる冒険心を持った人材です! 別に私がここで良い事だけを話したほうが人は集まりますよね・・他のブースで話を聞いてみて下さい・・ほとんどの企業が良い事だけをアピールしてますから・・・意味が分かりますか? 本気で自分を磨いてみたいと欲する人材を求めてるって事です! では、次の質問を受けます』
この調子で櫂の話は繰り出されるが、何故か質問をする為の挙手は後を絶たない・・
『仰られたように営業に対して不安は大きく感じるんですが、逆に営業の良い面も聞かせて下さい』
『はい、勿論その説明は必要ですね・・・そうじゃないと私は只の毒舌社員で終わってしまいます・・先ずは皆さんが気になる給与ですが・・ これは成果を残せば残した分評価はして貰えます・・トップセールスになると高級時計や高級車に乗っている社員が多く存在しています。
でもね・・・そんな高級品だけで満足なら皆が嫌がる労働をすれば良いですよね・・・寝る間も惜しんで、節約もして・・・高級品を手に入れるのも悪くない・・私が思う当社の営業の良さは、プライドを持てる事ですね・・・絵は一生ものなんですね・・自分の買っていただいたお客様に満足をいただけたプライド・・まだ世の中に浸透していない絵のある生活の良さを伝えているという誇りは確かに持てます・・・勿論営業マンによって違いますよ・・・売りつけて満足を得る人間も中には居る事も正直に言っておきます・・私がどんな人材を欲してお話をしているかは分かりますよね?』
棚橋の腰巾着である安口も、この櫂の演説には興味を持たざる負えなかった・・
人を操る為の根回しは目の当たりにしてきたが、ここまでストレートに、しかも瞬間的に大勢の人間を惹きつけるトークを聞いた事はなかったのである
岩崎も安口も初めて知る櫂の募集テクニック・・・いや、テクニックではない・・単純に正直に無骨に訴えかけるトークが人の心を掴んでいるのである
《これは・・・盗むのは無理かも・・・言葉だけじゃない・・態度も、表情・雰囲気も経験値の中で築き上げたものだからこその力で話してるんやから・・・》
岩崎は櫂の仕事内容に大勢の聴衆と同じ様に興味を膨らませていた
櫂は聴衆の中から、自分の話の内容を聞いて敏感に反応を返すことが出来る人間をピックアップし終えて、会話形式の企業説明に上手くそのピックアップメンバーを絡ませながら、心理を鷲掴みする段階に入った。
いつもならばこの段階まで来ると、募集採用に引き込む流れにトークを変化させるのであるが、櫂に興味の視線を向け始めた聴衆や岩崎・安口の心理とは裏腹に、又もや謎の警告臭が櫂の心理に漂い始める
《何やねん! 何で興味を持って俺を見る求職者の視線を重く感じるんや? 俺は何に警告を感じてるんや? 正体が分からん! 気色悪い!》
『す、すいません、ありふれた質問ですが・・・休憩とかはありますか? 皆さんどの様に過ごされてるんでしょうか? 厳しそうな世界ですが興味が沸いてきたもので・・』
急に心ここに在らずという表情に豹変した櫂に、遠慮をしながらも質問は続く
『え・・ああ・・うん・・・・・・・・・休憩か・・空でも見て・・ボケ~とするしかないな・・・・・未来が見えん時は・・』
『????』
聴衆も驚いたが、岩崎と安口はもっと驚いた
『未来が見えない・・・ですか?』
質問者はその場の全員を代表して質問を重ねた
『・・・・・・・・』
櫂は力無い目で質問者を見返すだけである
《・・・・希望に溢れる新人を増やす? 俺の言葉で心を引きつける?・・》
『森田課長!、何を言うてるんです?』
堪らずに岩崎が壇上に上がって櫂に耳打ちをする
『ええ? 何って?・・・・・あれ?・・・こりゃあアカンわ・・岩崎課長、スマンけど後は頼むな・・・』
櫂は自分に驚いた様に我に返ると、自ら壇上を降りて転職説明会の会場を出て行ってしまったのである
『そう・・・仕方無いわね、今日は自宅に戻って休んでちょうだい・・』
櫂からの連絡を受けた加山は、体調不良を訴える櫂の謝罪に首を傾げた
《健康の塊みたいな存在やのに・・・何があったの?》
そう思いながらも、加山は妙な胸騒ぎを感じた
電車を乗り継ぎ、名古屋から数時間をかけて自宅のある交野市までの帰路についた櫂は、未だに消える事のない警告臭に困惑しながらその表情からは生気が抜け落ちてしまっていた
『・・・・ただいま』
日が沈まぬ時間に帰宅した櫂は小さな声でそう言ったきり、ダイニングテーブルに突っ伏したまま顔を上げようともしない
『えっ! どうしたん・・・帰るのは明日やなかったっけ?』
令央を寝かしつけたばかりの優里は生気を無くした櫂の表情に身構えた
『何か変なんや・・・・転職説明会で話してたらな・・・急に意欲が途切れてもうた・・ 皆の興味を持った顔を見てたらな・・・・エネルギーがピタリと止まってしもたんや・・俺は・・・どうなったんやろうか? 一滴もな・・・やる気が出てこえへんのや!』
蒼白い顔で答えを探し求める様子の櫂を見て、優里の目にはうっすらと涙が湛えられてゆく
『そうなんや・・・自分で気付いてないんやね・・・・櫂ちゃんらしいけど・・・』
櫂の目を見返しながらも、優里は赤く変色してゆく目から涙が溢れ落ちぬように素早く拭い去る
『何に? 俺は何に気付いてないんや?』
『もう・・・やり切ったんやで・・この会社に対して、出来る事の全てを終えたって事・・頑張ったやん! 闘い抜いたんやで・・・でもな・・自分で分かってしもたんや・・』
『何をわかってもうたんや?』
『・・・・目指した未来が来ない事・・ゆっくり先の事を考えれば良いよ・・櫂ちゃんについて行くから・・私も令央もね・・・』
なんと自分は無自覚なのであろう・・・
天職と思い込むばかりに・・・
そして自分を信ずるがばかりに・・・
『・・そうか・・・・優里、ありがとう・・・』
優里の言葉を聞いて、櫂の警告臭の正体を覆い隠していた靄が嘘の様に吹き飛んでゆく・・
櫂は大きく目を見開いたまま天を仰いだが、その視線の先には最後に自分が成すべき事が明確に見えていた