氷河期
『先程もお話ばさせていただきましたが、大切なお金だからこそ残せる物に使うて欲しかとですよ』
赤柳は焦り始めた自分の心を鎮める為にも、ゆったりとした口調を意識した
『・・ええ・・・それは分かるとですが・・今の私には・・・やっぱり・・』
来場者も紅潮した表情で目の前の作品を見たまま言葉を捻り出す
『最後まで悩んで頂いて本当に有難うございました・・きっと踏ん切れる日が来た時に、今日の赤柳との出会いを思い出して下さいね・・』
突然に割り込んできた責任者の言葉に、来場者は深々と頭を下げて催事場を後にした
赤柳は時折振り返る来場者の姿が見えなくなるまで笑顔で見送ったが、櫂に肩を叩かれた瞬間に両目を真っ赤にして悔しさを噛み締める
『言葉を変えながらも、同内容の説得を3周も聞いて貰えたんや・・お前の営業に間違いは無いぞ・・けどな、契約社員で給与の変動も激しい・・・それも10万円に届くか届かないかの範囲での話や・・あの来場者様が言ってた通り首を切られるのが何時かも予測がつかない状況や・・あれ以上のトークは押し売りの域に入ってしまう・・お前には理解出来るやろう?』
穏やかに語り掛ける櫂の説得力が赤柳の両目から大粒の涙を溢れさせる
『すいません・・・貴重な来場者様だったのに・・・』
『そんな事なんとでもなる・・全員が諦めんと駈けずり廻ってるんやからな!』
笑顔で答えながらも、櫂には今の状況を打破する策を思い浮かべる事は出来なかった
来日展以降の一般催事には、以前にも増して九州経済の悪化を実感させられていたが、今回の輪店指導で訪れた会場は悲壮感さえ漂っていた。
ショッピングセンターの専門店エリアの奥に設営された特設会場・・・
通常であれば1日の来場者を少なくとも10名~15名程度は見込める立地である・・
九州支社は今までもその条件下で達成目標をクリアして来たのだ。
ところが今回の会場は周囲の専門店が尽く閉鎖されており、薄暗い閉鎖店舗には網カーテンが掛けられ、通路の電灯までが節電の為に半分を消灯してしまっている状態である・・・・・・・
初日からの平均来場者数は1~3名、先程の来場者は週末になって来場してくれた20代のゴールデンターゲットであった
《会場の確保だけでも至難の状況なんや、井筒に文句は言えん・・・・買える要素の有る来場者様さえ来てくれれば何とかなる・・いや、何とかする!》
山木・納元の会場を輪店指導で廻りながらも、会場売上が週末だけに偏る日々が続いていた
本間・石本を筆頭とする別働隊は、他エリアの開拓を兼ねて比較的来場者が見込める広島・岡山まで遠征していたが、やはり催事への来場者数の激減は否めない・・・
絵画商法による消費者センターへの苦情件数の増加を連日のように取り上げるメディアと、景気の低迷による消費者の嗜好品離れのダブルパンチによる影響で、九州支社は売上達成率の70%を確保する事が困難な程に追い込まれていたのだ。
他支社エリアも九州エリア程の冷え込みには及ばないながらも、既存顧客のワールドアート不審と便宜売りに慣れ親しみすぎた新規開拓能力の低下によって達成率をクリアする事が出来ずに苦しんでいる
一時は新卒社員と中途採用社員の並行募集によって、300名近くに膨れ上がったワールドアートも、営業チャンスすら巡ってこない環境下では、離職率が一気に跳ね上がっていた・・
今までは日本各地で催事を展開する度にバッティングしていた同業他社も、この頃には逸早く時代の流れを掴み取って事業縮小路線を選択し、体力温存を最優先に虎視眈々と復活のタイミングを睨んでいるようである。
新時代は良い物を売るだけの企業は生き残れない・・世に認められる誠実さをアピール出来る企業だけが生存を賭けて闘う切符を手に入れる事が出来るのであろう
そういう意味では、多重債務者に対しての重ね売りで歴史に残る催事売上を残したワールドアートは真っ先に淘汰されるべき企業という事になる
《今は営業力を磨きながら耐えるしかない・・・縮小への流れこそ自然・・残るべき者は残る・・・お互いを支え合える者が居れば世の中が向上するチャンスを見逃さずに済む筈・・》
櫂は人影すら見当たらないショッピングセンターに、配券ジャンパーを着込んで飛び出す赤柳の後ろ姿を見ながらとことんまで騰がらう決意を拳に握り締めた
『岩井・・眉毛が下がってきたぞ! そろそろ週末のピーク時間帯や・・笑うとけ! 全員で最高に楽しい空間を作って出迎えようやないか・・・それが信じて貰う為の第一歩や!』
『大丈夫ですよ! 分かっとりますけん・・やるべき事は全員が知っちょります』
『おおっ、言うようになったやないか!』
『後輩が見ちょりますから・・今度は私が教える番です!』
《そうや、俺達がすべき事は何も変わらん・・・例え氷河期でも笑顔で絵のある生活の良さを伝えるだけや・・俺がすべき事はコイツ等を食わせてやる事、絶対に諦めずに突破口を考え抜いてやる!》
【自分が負ける訳が無い】と言う櫂の信念は変わらない・・・
只、もう一つの重圧と戦っているのも事実である・・【自分が負ける事は許されない】そしてその重圧を跳ね除ける最中でも【正義を踏み外さずに】と言う条件を死守しなければ意味が無いのだ
それが、今まで共に闘った先人・ライバル・部下達と築き上げたプライドだからである・・
残暑の和らぎからは、いつの間にか蝉の鳴き声が消えていた