必然
『えっ? 嘘嘘! あの次長の接客しとう女の人・・いつの間にか買うてるったい!』
椎名が俄かには信じられぬという口調で驚くと、周囲の営業マン達も驚きを隠せなかった
一向に商談らしい様子も感じられなかった接客から一転、なんと250万の初期作品の購入を決定しているのだ。
しかも信販会社を使わずに現金一括での購入である
『度肝を抜かれるわ! 女の人が一人でこんな大金を持ち歩いてたとは・・』
櫂は広原の手持ちのポーチから取り出された札束を見て冷や汗が吹き出ると感じた
『別に購入する気で持ち歩いてた訳じゃ無いわよ、新生活になる記念に何かを買おうと考えてたのは事実だけどね・・興味も無い貴金属なんかに使わなくて良かったわ』
『ええから、現金をポーチに戻せって・・・あんた無用心過ぎるぞ! 仕方無いわ・・契約作業はこんな人混みの中ではさせられん・・・付いて来てくれ!』
櫂は広原を待機エリアに招き入れた
役員専用バックヤードのほうが良いとも考えたが、壁面に張り出された成約オーダー表を見て広原に幻滅した気分になって欲しくはなかったのだ
待機エリアに居た営業マン達は櫂の行動に驚き、あたふたと待機エリアを退出する者、更に好奇の目を向ける者と様々な反応を見せたが、櫂はズカズカと待機所奥まで広原を案内すると、手早に契約処理に取り掛かった
『此処、とても暑いわね・・・蒸せちゃう・・』
広原はそう言うと、帽子をポイっと傍らに投げた
『おいっ! だからバレるやろ!』
『だって此処はあなたの会社の社員さんしか居ないし、少し位は良いでしょ!』
広原は更にマスクまで外して櫂に抗議した
『えっ! 本人なん? 嘘やろ! こ、小西唯花やん!』
一人の営業マンが即座に広原の正体に気付いて騒ぎ立てると、周囲の営業マンが一気に櫂と広原を取り囲んだ
『う、嘘っちゃろう! 何でそうなると!』
山木も大声を出して何故か落胆した
『おい! お前ら・・・それ以上騒ぐな! 成約客の前で騒ぎ立てるんか? それでもプロか? それとな、この事はこの待機エリアから絶対に外に漏らすなよ・・・ しょうもない騒ぎ方をした奴が誰か分かったら、俺はとことん許さんからな! 分かったら向こう行け!』
余りにも脅迫めいた櫂の口調に一瞬で待機エリア内は静まり返った
『あら、私の為に闘ってくれるのね・・・櫂ちゃんって優しいわね』
おどけた口調で広原が櫂にウィンクをする
『か、櫂ちゃんやと! お前根性悪過ぎるぞ! 今まで一度もそんな呼び方をせんかったやろ』
櫂は静かに見守る営業マン達の視線を集めながら顔を紅潮させた
『あら、ゴメンなさい・・これからは櫂ちゃんって呼ぶからね』
尚も広原の悪ふざけは続いた
『お前・・・良え加減にやめろ!』
体が熱くなるのを感じながらも、出来る限りのハイスピードで契約処理を済ませた櫂は、待機エリアのカーテンの隙間から外の様子を伺ったが、絶望的な気分を味わった
《ボロ糞にバレとるやないか! 収拾つかんぞ!》
櫂は焦りを覚えて広原のほうを振り向くが、肝心の本人は呑気に櫂に手を振って笑顔を見せるだけである
『おい!』
櫂は身近に居た営業マンを睨みつけた
『はいっ!』
怒りを顕にした櫂に睨みつけられた営業マンは硬直したが櫂は気にもせずに指示を出す
『直ぐに井筒を此処に呼び寄せろ! 早く行け!』
『わ、わかりました!』
営業マンは跳ねる様に待機エリアを飛び出した
『冗談や無いですよ! 私が替え玉なんて』
井筒はふくれっ面を櫂に向けるとマスクを着用して広原の帽子を目深に被った
『体型が似とるんやからしゃあないやろ・・上手くやってくれ!』
櫂は配券ジャンパーを着込みながら申し訳なさそうな表情で井筒を見た
『はいはい・・・悪魔め!』
井筒は傍らの山木と呼吸を合わせて会場内に飛び出すと、急ぎ足でAホール内を移動し続けた
『よし、俺らも行くぞ!』
櫂はそう言うと、雨も降っていないのにピンク色の雨合羽を着用した広原のフードを引っ張って被せた
『ちょっと~ ら、乱暴は嫌よ櫂ちゃん!』
『いつまでしょうもない呼び方しとるんや! 配券を持てよ・・・このままタクシーロータリーまで一気に移動するぞ!』
2人も待機エリアを出ると、さも忙しく働く配券要員を装って会場を抜け出した
タクシーロータリーまではATHの娯楽施設ゾーンを抜けないと辿り着く事は出来ないが、2人はその人混みの中を急ぎ足でくぐり抜けてゆく
『ちょっと待ってろ・・動くなよ! 黙ってろよ!』
櫂はそう言うと、通り掛かった雑貨店に飛び込んでしまった
行き交う雑踏に置き去られて広原は急激に不安を募らせ始めた
《正体が知れちゃったらどうなるのかな?・・・怖い・・》
広原はフードを摘んで顔を覆い隠しながら、雑踏に背を向けて壁面にコツンと額を当てたまま固まってしまった
『ちょっと! 酷いよ、こんな人混みで一人にするなんて!』
惚けた表情で雑貨店から戻った櫂に広原は噛み付いたが、即座に手を掴まれてグイッと人気のない非常口の踊り場まで連れ去られてしまった。
『な、何のつもり?』
理解出来ないまま広原の鼓動は速度を上げるが、妙な高揚感が警戒心を上回っている自分に気付く
『ほれ、マスクを買うたから直ぐに付けろ・・それとサングラスも!』
手にした袋から手際よくマスクを取り出しながら無愛想に突き出す
『あ、ありがとう・・・えっ、何よこのマスク! 小熊のプリントが入ってるじゃない! 子供じゃないのよ、こんなの恥ずかしくって付けれない!』
『あんたの宿泊するホテルまでの我慢や、世の中には心無い人がウヨウヨ居てるからな~ 危ない目に会いたくなかったら我慢しろ! ほら、このサングラスも直ぐに付けろ』
『ええ~、何で丸いサングラスを選ぶ訳~ あなた、ワザとじゃないの!』
『阿呆言え! 此処は観光地の雑貨店やぞ・・こんなんしか無かったんや! ええから早よ雨合羽も脱いでしまえ! 最後はこの帽子を被って完成や・・』
『勘弁してよ! 何でこの帽子なの? 猫耳におまけに尻尾まで付いてるじゃない!』
『だから~、我慢しろ! これで安心してタクシーロータリーまで行けるんやぞ! それにな、まさか女優さんがこんな格好で歩いてるとは世間の誰も思わんしな・・・・』
櫂は笑いを我慢しながら必死で真顔を作ってみせた
『絶対に悪意が入ってるわよ! このチョイスは!』
不機嫌な広原もどことなく楽しそうに答える
『あなた、明日が最終日なんでしょ? 私は明日まで大阪に滞在してるけど・・』
辿り着いたタクシーロータリーでサングラスを外した広原の目は真剣だった
『俺は走り切るぞ、試合終了まで! そして真っ先に頑張ってきたぞって伝えるんや』
櫂は雑貨店の袋からブリキの電車を取り出して笑顔を返した
『やっぱりあなたは馬鹿ね、大きなチャンスを逃したわよ・・・もう会えないかも知れないのに・・』
広原は表情を変えなかったが、素早くサングラスをかけ直してその目を隠した
『会えなくても、どう思われても、広原のぶ子は俺の大切な友達や! お前が忘れても俺が忘れる事は無い! 新たな出発・・応援してるぞ・・』
『嘘ばっかり・・・テレビをまともに見ない人が・・よく言うわね・・私はあなたを忘れるかもね・・』
広原は言い終えると同時に颯爽と手を上げて待機中のタクシーを呼び寄せて乗り込んだ
『元気でね!』 マスクを外した広原が窓を下げて満面の笑顔を向ける
櫂は窓越しに車内を覗き込むと、運転手に大声で話しかけた
『朝顔タクシーの、ええ~っと・・梶本功夫さんですか・・無事にきっちり送り届けて下さいよ! 俺の大事な妹なんやから・・何かあったら俺はとことんまで追い掛け回すからな!』
『えっ、は、はい・・・責任を持って・・』
運転手は驚きながら恐縮して答えた
『負けんとこうな、お互いに!』
最後に櫂はそう言い残すと、タクシーのボディをトントンと叩いた
合図と同時にタクシーは走り出したが、広原も櫂も視線を明日に向ける事で決意を固める別れを選択したのだ
《妹って・・・馬鹿じゃないの・・私のほうが絶対に歳上に決まってるじゃない・・馬鹿過ぎて忘れられない・・・来てよかった・・最高の原点になったわよ!》
《優里、令央・・・明日で決着や! 父ちゃんは走り切ったと胸を張って帰るぞ!》
出会いを偶然で終わらせるか、必然に変化させるかは心の持ちようの違いだけかも知れない・・
今までの多くの人との出会いと別れにも、もしかすると見落としている学びがあったのであろうか?
全ての出会い別れを必然と捉えられるようになれば、又、新たな開花が待っているのか?
未熟だからこそ淡々と・・不器用だからこそ休まずに・・
広原との出会いは一瞬の閃光であったが、櫂の心理に新たな考え方を植え付けるヒントになったと言える
《全開ゴリゴリ!》
青年のエネルギーは明日からの出会いに対して漲り昂ぶった