焦
会場オープンから僅か1時間程度でAホール内は来場者で埋め尽くされたが、アポイント部隊によって早期来場に誘導されたコウ・カタヤマファンクラブ会員の既存顧客達は既にBホールで新作前の複数の商談テーブルに着座させられて苦悶の表情を浮かべていた。
『安口課長~ 又いつもの様に中川さんが意地悪な断り方をするんです~』
東海常設店のトップセールスであろう女性主任が、甘えた口調で安口を手招きする
『中川さん、うちの主任を困らせないで下さいよ』
にこやかに商談に近づいて行く安口は、高級ネクタイを締め直しながら友人にでも話しかける様に笑った。
『あ、いえっ・・・もう幾ら何でも買えませんよ・・もう6枚も所有してるんです! それに、最後に買ってからはまだ1ヶ月も経ってないんですから・・・今日はゆっくり歴代作品を見たくて来たんです』
男性顧客はまるでこれからの展開を予測済みの様に慌てふためきながら断り文句を絞り出した
『またまた~、今回の記念作を逃したら一生後悔しちゃいますよ! これは当社の代表者がカタヤマ先生と永年の親交を深めてきた結果、ようやく描き下ろして貰えた傑作なんですから・・・日本の四季を描き分けた小型作品4部作なんて今しか買えないですよ!』
安口は動じる様子もなくトークを続け、女性主任は大袈裟にうんうんと頷いて見せた
『わ、分かりますけど・・・もう支払いが・・・それに、もう僕は信販会社の与信も通らないですよ!』
顔を真っ赤にしながらも男性顧客は席を立とうとはしない
『成る程~、中川さんは落ち着いた風合いの作品が好みでしたよね? じゃあ今日は特別に足を運んで頂いたお礼として、極秘の作品を先にお見せしましょう!』
まるで男性顧客との会話が噛み合わない返答を笑顔で返した安口は女性主任にアイコンタクトを送る
『えっ、ええ~! 良いんですか! まだ未発表にしておかないとダメと釘を刺されてるのに! 凄いですよ中川さん! 良かったですね~、流石に東海地区の責任者は権限が有りますね~』
女性主任は躊躇いもなく男性顧客の手を握り締めると、その手を離さずに立ち上がった
『あの、ダメですよ! あの小部屋はマズイですって!・・買わないですからね・・』
男性顧客はやはり今後の展開を予測している様であるが、満更でもない表情で女性主任に手を繋がれたまま安口の背中を追って会場脇にパーテーションで設置された小部屋のカーテンをくぐり抜けて入室してしまった。
周囲の商談テーブルでも、この流れと同様に自分の上司を呼ぶ営業マンが続けとばかりに手を挙げ始めた。
広大な展示スペースの隅に設置された小部屋は合計6部屋・・
この段階で全ての小部屋は来場顧客で埋められており、入口に張ったポールチェーンが外界とを遮断した。
『こ、これは・・・凄く良い絵ですね・・』
薄暗い小部屋に入室した男性の前には、スポットライトで浮かび上がるもう一つの新作が存在感を放っている
『夕日のセーヌと言う最新作です、今回のサイン会で発表するんですが中川さんに絶対に考えて貰いたくて・・』
安口は男性顧客の表情を見て心の中でほくそ笑んだ
『お、お幾らなんですか・・・この夕日のセーヌ・・』
男性顧客は脳内で快楽物質が分泌され始めるのを認知しながらも前のめりになる自分を抑えられない
『いつもの新作価格と同様に80万です・・・先程の小型4部作は240万ですから安いでしょ~』
安口の脳内にも快楽物質が分泌されてゆく・・・獲物を捕らえる瞬間がもう目の前に迫っているのだ。
『でも・・やっぱりローンが・・・』
男性は最後の抵抗を示すが、まるで推し量ったかのようなタイミングで小部屋のカーテンが開かれて部屋内に明かりが差し込む
『やっぱり安口か・・・釘を刺しておいた筈やけどな』
声の主は棚橋であった
『ええっ、棚橋部長! スイマセン! 中川さんは東海支社にとって凄く大切なお客様なんです! 誰よりもカタヤマ先生の絵を理解して下さる方で・・・これを見て戴かないと申し訳無くって・・』
先程までの尊大な態度とは一転し、安口は棚橋に対しての低姿勢を男性顧客に見せつけた
『中川さん! す、凄い方ですよ棚橋部長は! 滅多に会場には来られないほど多忙な方で、ワールドアート営業部隊の統括責任者です! これだけの規模の来日展だからこそ足を運んで頂けてるんです!』
女性主任がすかさず棚橋のティーアップを放り込む
『ああ、もうそんな紹介は良えから・・・それより中川さん・・いつも東海支社を応援頂き有難うございます・・それだけの顧客様であればこの機会にワールドアートの責任者として出来る限りの事はさせていただきます』
『ええ! そんな! 凄い! 良かったですね中川さん!』
安口と女性主任が感嘆の表情で男性顧客を盛り上げてゆく
『あ・・・ええ・・でも僕はもうローンが通らないし・・』
『そんな事なら問題無いですよ! 中川さんと同様にファンクラブ会員様は10枚以上を所有する方も多くいらっしゃいます・・信販会社への折衝も私が直接に対応させていただきますよ・・それより安口、四季4部作は見ていただいたのか? あれも歴史に残る名作になるのは間違いない作品や、中川さんならとっくにご理解頂いてる筈ですよね』
『勿論です・・私も四季4部作を所有していただきたいとは思いますが・・・』
安口は神妙な表情で口惜しさを表現した
『中川さん、四季4部作ではどの季節の作品が気になりましたか?』
物腰穏やかに棚橋は問いかけた
『え、まあ・・良いなと思ったのは秋の銀杏並木の絵が・・気にはなってますが・・』
『おい、安口課長』
男性顧客の返答と同時に棚橋は安口の肩を叩き、安口は即座に小部屋を飛び出した
『・・・?』
男性顧客と一緒に女性主任も白々しく何事が起きているのかわからないという表情を装う
棚橋はスーツの内ポケットから小さな電卓を取り出すと、悩む素振りを見せながら時間を掛けて何度も電卓の電子音を響かせた
『失礼します』
暫くすると四季4部作の一つである秋の小型作品を抱えた安口が再び小部屋に舞い戻った
『夕日のセーヌと四季4部作秋・・如何です、どちらも名作入りが約束された傑作ですね』
棚橋が男性顧客の肩にそっと手を乗せて語りかける
男性顧客の心は明日からの切り詰めた生活よりも、この瞬間の快楽に身を任せようかと大きく揺らいだ
『安口、中川さんにはこの2作品同時購入なら、これで責任を持ってやる・・・他の顧客様も沢山来られてるから、あまり騒ぎ過ぎないように頼むぞ』
棚橋はそう言いながら電卓で叩き出した数字をチラリと安口に見せてから小部屋を去った。
『ほ、本当に良えんか、この価格?』
安口が呆然とした表情で男性顧客を見る
『えっ、どんな価格を提示して下さったんですか棚橋部長は?』
女性主任が最後の演技に入った
『中川さん、本当にラッキーですよ・・・驚かないで下さい・・この新作2作品で115万です! 有り得ないですよ! 小型作品秋が35万で手に入れられるって事になります! しかも棚橋部長が信販会社に折衝してくれればもう太鼓判ですって!』
『ええ~! もう二度と無いですよ! 中川さん、これは一歩踏み出すべきですよ!』
『そう・・・ですよね! これは凄い! じゃあ、2作品購入します!』
男性顧客が成約1号となった頃には、隣の小部屋でも棚橋が電卓の電子音を響かせていた。
『どうや、動きは順調か?』
Bホール中央に作られた役員専用バックヤードに戻ってタバコを咥える棚橋に中山が問いかける
『スタートは予定通りに推移してます・・・初日から入れ食い状態になりますね』
棚橋はニヤつく表情を隠そうと、いつもより頻繁にタバコを吹かした
『棚橋部長、先程はフォローを有難うございました』
早足で役員専用バックヤードに入室してきた村下は丁寧なお辞儀をした後で、壁面に張り出してあるオーダー成約表に安口チームに続いて2号目の契約となった自チームの主任の名前と成約価格160万を書き足した。
『会場は温まってきたか?』
棚橋が上機嫌に村下に問う
『はい、Bホールは小部屋以外の商談テーブルも埋まり始めました・・・失礼します』
村下は言い残すと即座にバックヤードを後にした
『中山社長には信販会社への対応をお願いします』
棚橋がタバコを灰皿に押し付けながら笑う
『ああ、分かっとる・・・根回しはして来たんや、それでも余力数字は必要やぞ!』
2人は目を合わせて順風な滑り出しを実感していた
櫂はAホールでメンバーの接客を分析し終えて優先順位を確定したばかりである
予定通りに主力部隊がAホールで来場者との人間関係を形成し、コウ・カタヤマという作家の人間性や作風の模索に苦しんだ背景を伝え切り、作品に込められた物語を知ってもらい、来場者が興味の扉を開いた段階まで来た。
《よし、焦るなよ・・Bホールでは絵のある生活を知って貰うんや・・・自分が感動し、樂しみながら来場者の歩調を見抜いて誘導してやってくれ・・》
予定よりは少々遅れたが、九州では本間が1番乗りでBホールに来場者と一緒に姿を現した。
既に溢れ返る商談数に一瞬は躊躇うが、これも櫂からは先読みで伝えられていた事だ
【コレクター顧客は商談に持って行けて当たり前や・・・お前達がBホールに入る頃は相当数の商談が目に飛び込むやろう・・そこで焦ったらお前達の良さは消えてまうからな・・ザルから漏れる天ぷら契約が大半や! 他エリアの営業マンの事はじゃがいもやと思って無視しとけ! お前等は俺と一緒に心理に寄り添う営業の腕を磨き続けてきたんや! 胸を張って行けよ!】
『じゃがいも!』
『はっ?』
本間の呟きに、人間関係の出来上がっている来場者も首を傾げる
『何にもなかですよ・・さあ、楽しんで下さい!』
九州がいよいよ戦場に立ったのだ・・