鮮烈
バックヤードを出た櫂と林葉は、商談テーブルに座る藤田の姿を確認して困惑した。
テーブルの前に3つものイーゼルを設置して大小様々の作品を並べているのだ、しかもコウ・カタヤマのブースに、アイブン・ノアールという神秘的な抽象風景を描く外国人作家の作品ばかりを設置しているのである。
『藤田って、あの作家の作品を嫌いって言ってたよな』 櫂が隣の林葉に聞く。
『うん、嫌いやからあの作家の画集は見向きもしないで放ったらかしてたはずやわ』 きょとんとした表情の林葉が不思議そうに答える。
櫂達と連絡通路ですれ違ってからは随分と時間が経過しているはずであるが、ずっとあんな調子で商談していたのであろうか。
『あの子、次から次へと作家や作品を変えて設置して、ようやくアイブン・ノアールに落ち着いたよ』
満島がそう言って説明してくれたが、まるで小間使いのように藤田に作品を運ばされたのだと付け加えた。
《凄く藤田っぽい話やな、俺はもう驚かんけど》
櫂は満島の話に驚きは感じなかったが、藤田のエスコートしたオタク風の気難しい男性客の表情の変化には驚くしかなかった。
あれだけ表情の硬かった男性客が、少し紅潮した顔で目の前の3枚の絵を真剣に覗き込んでいるのだ。
櫂は林葉と一緒に商談を盗み聞く為に気配を消しながら近づいた。
『だからね~高田さんは、真ん中の絵にするべきですよ』
『なんだかチョット暗すぎませんか?・・この絵』
『そう!、そこが良いんですよ~ 暗いじゃなくてシックな絵ですよ、シック! 飾るならこの絵で決まり』
『この絵、なんて題名ですか?』
『・・・・題名は聞かずに! インスピレーションが一番大事ですからこういう抽象画は・・・・・・』
『はい・・』
『じゃあね、これにしましょう』
『う~ん、この真ん中の絵はお幾らですか?』
『・・・・ちょっと森田君、これ幾らだったっけ』
気配を消して近場にいた櫂は突然話しかけられて慌てるしかなかった。
《おいっ、俺に聞くか! マジやめやで!》
『はい、40万です』 なんとか落ち着いて返答する事が出来たが、嫌いな作家とはいえ会場内に展示する絵の価格は覚えておいてほしいものである。
『これ、月々にするとお幾らですか?』
『・・・・だから・・今はそれよりもこの絵に自分が近づく事が重要ですよ・・2万円でも1万円でも、それはこの絵だと高田さんが信じれば後で考えればいいんですよ』
『本当にこの絵で良いと思いますか?』
『勿論! もっと自信を持つべきですよっ 折角新しい趣味を持つんですから・・
シックな抽象画は表情を変えてくれますから・・音楽聞きながら絵を見て生活してみるんでしょう』
『う~ん、そいうものなんですかね~?』
『はい、アートってそう楽しむべきですよ・・ 高田さん次第ですよ絵の価値なんて』
『でも、初めてだしな~絵なんて』
『だからチャンスなんですよっ 余計な雑念や知識無しで絵を選べるでしょ~ 運命です』
《なんやこの会話は、何で客は藤田の話を聞いてくれるんや? 運命って?》 櫂は藤田の不思議な営業展開に驚くしかなかった
『私は切っ掛けになっただけで、高田さんが今日この絵と出合ったのは凄く大切な事件ですよ~』
《事件?》
『はい、でも払える金額かな~?』
『林葉さんっ これの割賦表を取って来て~』
今度は林葉が声をかけられて慌てふためきながら40万円60回払いの割賦表を探す事になった。
『どうぞ』 平静を装いながら汗を滲ませた林葉が藤田に割賦表を手渡す。
『ほら~これが月々の金額ですよ~』藤田がぎこちなく割賦表を開いて見せる。
『えっ、7000円で買えるんですか?』
『そうですよ、ほらやっぱり先に絵を選んで良かったでしょ』藤田は屈託のない笑顔で答えた。
『そうですね・・・じゃあ・・・・・・・・買います』男性は以外なほどにすんなりと購入を決めた
《嘘っ、藤田の奴! とうとうやりやがったぞ! 大事件や!》 林葉も小さなガッツポーズを作って櫂を見た。
『は~い、ありがとうございます』藤田は高田さんと成約の硬い握手を交わしたのだ!
その後、藤田の商談を後方から見ていた井川までが藤田に呼びだされ、申込書の記入から発送の説明までをする事になり、なんとも慌ただしい藤田の初オーダーとなったのである。
高田さんと呼ばれた男性客は、出口で藤田が見送る際にも『今日は本当にありがとう』と言い残してその場を去った。
『うわ~、私もうヒンケ~』 男性客の姿が見えなくなると同時に藤田は崩れるようにその場にうずくまったが、林葉が藤田に抱き着いて喜んだので少し照れ隠しの苦笑いを見せた藤田は『ありがとう~』と力を振り絞って満面の笑顔に変わった。
研修3日目にして、北館北入口からの自力エスコートで、初接客・初自力オーダーを決めた藤田の存在は、既存の営業部隊に対して波紋どころではない、鮮烈な印象を与えることとなり、ワールドアートへの定時売上報告で井川部隊の存在感を他のチームにも知らしめる事となったのである。
藤田はその後『なんで売れたのか解らな~い』と言っていたが、井川から作家・作品への勉強不足を指摘された後、男性客のNOを少しずつ真剣に打ち消しながら、
小さなYESを積み重ねた事が最大の勝因だと伝えられていた。 それに加えて藤田ワールドとも呼ぶべき世界を作り出し、男性客を藤田のファンに変えられた事も成約への重要な要素と考えられるという事だ。
既存部隊だけでなく、櫂や林葉それに人吉・秋爪も藤田の初オーダーには鮮烈な衝撃を受けていた。
チームメイトとして心の底からの祝福を送りつつも、結果を残せなかった自分に対しての悔しさを改めて突き付けられた気分になる。
『よし・・・次は心斎橋【ギャラリー黒鳥】や・・・・気持ちはもう明日からに切り替えろ・・お前達はまだまだ歩き出したばかりや・・』
井川に言われるまでもなく、この時のメンバーは全員が心に燃え上がる炎を明日に向けていたのであった。