漆黒
『こ~ちゃ! あああっ!』
再び出張業務に出掛ける櫂を見て、言葉を覚え始めた玲央は泣きじゃくった。
『こ~ちゃと違う、父ちゃんや・・・泣くなよ・・』
締め付けられる思いで玲央の頭を撫でる
『出張ばかり! これじゃ家族で居る意味なんか無いわ! 玲央が不憫や・・何の為に支社長になったんよ・・自分でシフトを決めれるなら出張なんか部下に行かせれば良えやない!』
《・・又か・・・部下に任せられるならこんなに苦しくない・・・》
『今は重要な時期なんや・・・分かってくれ・・』
櫂にはそれしか答える言葉が無かった
『居心地が良いんでしょうよ! 部下には上げ膳据え膳でチヤホヤして貰えるからね! 今度帰ってきた時には私も玲央も居らんかも知れんから!』
優里は玲央を抱き抱えて奥の部屋に飛び込むと、ドアをバタンと締めて姿を消した
《・・上げ膳据え膳・・・・俺をそんな風に見てたんか・・・》
櫂は何とも重苦しいムードを与えられたまま、静かに玄関ドアを締めた
募集業務での慌ただしさから開放されたと思いきや、櫂は育成業務に奔走する事となっている。
中途採用社員の増員と新卒採用者もそこに加わり、九州支社は総勢40名以上となり、この時期の育成業務は今後を大きく左右する意味でも最重要課題なのである。
山木・納元の育成能力は充てに出来る力量には程遠く、櫂は輪店指導に駆け回るが、此方が立てば彼方が立たず・・安定感の無いチームバランスを強化する為にも、中途採用で入社した有望社員を早期に育成してしまいたいのが本音であった。
《赤柳と東村の早期育成がどうしても必要なんや・・本間・石本の成長が伴えば3チーム体制は目前・・・・》
中途採用社員の赤柳の成長は著しく、成約自体も本間・石本に迫る勢いがある。
赤柳の思考には落ち着きと知性が含まれており、将来有望の課長職候補である事は間違いなかった。
それだけではない、驚くべきは赤柳と同時入社した東村純子の存在である
几帳面な性格で細かくメモを取る仕草も様になってはいるものの、物覚えが悪く、同じ事を何度も説明しなければ身につかない・・・只、東村には他の営業マンには無い驚異的な粘りが有った。
兎に角、諦めずに来場者に勧め続けるのだ・・断られても、貶されても、東村は笑顔で話を続けては絵を勧めるのである。
《これは凄い武器やぞ!》
東村から購入を決めた来場者は一様に笑顔で会場を後にする・・それは東村から滲み出る人間性の現れであろう。
『このサイン会が不達成なら・・今後の九州エリアでの中型催事は難しくなります・・それと河上本部長が営業指導担当の越口さんと一緒に輪店指導に来られる予定です・・何だか無理矢理に中山社長を説得して九州まで来たみたいです・・・』
重苦しい口調で説明する井筒も最近では表情に疲れが目立っている。
櫂と同様に井筒も冷え込む商圏に孤軍奮闘しているのだ・・・
『分かった・・・無理を聞いてくれてありがとう・・ATHホールまでにどうしてもメンバーにサイン会を経験させておく必要があったんや』
櫂はワールドアート3番手の位置付けとなる作家の小さなサイン会を段取りしてくれた井筒に素直に感謝した
河上は一時期トップセールスとして名を馳せた越口を伴って、催事会場のオープンと同時に来場した。
『櫂、今の九州の実力でサイン会を乗り越えられるのか? もう最終日である今日のサイン会実施だけが最後の達成チャンスやぞ!』
開口一番に河上はそう言ったが、それもその筈である・・ここ暫くの九州支社の達成率は僅かながら100%を切って進捗しており、サイン会でマイナスを出すタブーだけは意地でも避けなければならないのである。
営業畑から内勤業務の窓際に追いやられた河上は、誰よりも各チームの数字内容を分析しているのだ。
《突如の訪問の真意は分からんけど・・・俺も相当の覚悟で臨んでる・・この九州メンバーがどれだけ冷え込んだ商圏で闘ってるかまでは分析に入れとらんやろ! 来場者が見込めるサイン会や! 敵は場馴れしてない緊張だけや・・力は蓄えた!》
櫂の期待に反して、メンバーは普段の会場とは大きさも雰囲気も違うサイン会開催という現実に圧倒され、ギクシャクとした動きで来場者を迎え入れると、座り商談すらままならずに醜態を晒すのみであった。
《ここまで精神コントロールが出来無いのか・・・》
怖気づくメンバーを眺めながら、想像以上の情けなさが込み上げて来る
普段であれば、即座に本間や石本と言った主力営業マンに対して緊張を解く声掛けをする場面ではあるが、櫂自身も優里から放たれた言葉が心に残ったままプロとしての精神状態を保ててはいなかった。
《犠牲を払ってまで全力で育成したのに・・・何でお前達は軟弱さが抜け切らんのや!》
平静に戻ろうと必死になるが櫂の苛立ちは募る一方である。
加えて、会場中央で腕組をして様子を眺める越口の姿が余計に櫂の鬱憤を増幅させた
《偉そうに、課長として力量を発揮出来んかった奴が! 何が営業指導担当や!》
こうなると悪循環の波は途切れる事無く、櫂の表情はみるみる険悪さを増してゆく。
《やってられるか! どいつも此奴もふざけんなよ!》
焦点の定まらぬ櫂の心は漆黒に吸い込まれるが如く、今までに経験もしなかった深い孤独に占拠されていた。
理解・応援の気持ちを頑なに閉ざし続ける妻に対しての孤独・・全霊で育成した事に対して勇気を奮い立たせる様子の無い軟弱な営業部下への孤独・・
置かれた環境を理解もせずに、高見の見物で数字の催促だけを口にする上司への孤独・・そして、その孤独を唯一理解した林葉も今はもう居ない・・・・それが現実!
『・・長・・・次長・・聞こえてますか?』
遠くから聞こえて来る様な消え入りそうな声に櫂は引き戻されて振り返った
『次長・・・あの、私・・今から接客しますけん・・必ず座り商談で・・・やけん・・次長は笑うて見とって下さい・・・・いつもの次長みたいに・・・』
遥か巨大な黒い波に溺れそうになる櫂に、笑顔を見せながら震える声で話し掛けたのは岩井であった
《・・・・》 櫂は自分の思考を恥じるしかなかった
『眉毛!』
『えっ!』
『お前は器用やな、眉毛が下がったまま笑ってるぞ・・・ありがとうな・・元の俺に引き戻してくれて!・・期待せずに見といてやるから安心して行ってこいよ!』
『ウヒヒ・・行ってきます』
岩井は嬉しそうに笑顔を向けると受付を飛び出して行った
《俺は何て他力本願な弱さに捕まってたんや! ちゃんと闘ってるやないか・・・あの下げ眉の岩井が作り笑顔まで俺に向けて闘ってる・・》
『次長! 悔しかですが純子ちゃんが佳境です・・・先を越されてしまいました! フォローば入ってあげて下さい・・僕も直ぐに続きますけん!』
血相を変えた石本が言い残して、小走りで会場に戻って行く
表情が完全に変わった櫂を今度は会場中央から赤柳のフォローに入った山木が手を挙げて呼んでいる
『私が絶対に一番売るっちゃ・・トップは譲りませんけんね!』
ゆっくりと会場に歩を進める櫂の背中に受付待機中の本間が言い放つ
櫂は小さく頷いて本間に笑顔を見せるとネクタイをクイッと締め直した