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尖んがりジプシーの航路  作者: 下市にまな
第五章 九州決戦編
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『ちょっとは勉強してや・・転職フェアは通年で全会場に参加するって言うてるやろ~ 掲載枠はもう一回り大きい枠で、小さい枠と同じ値段位にしてもええやろ~』

 九州支社では櫂と求人誌営業の担当者が白熱した値引き交渉を繰り広げていた


別働隊メンバーの成長とは裏腹に、井筒の尽力を以てしても九州エリア以外の催事への常時参加は難しく、それは膨れ上がるワールドアート営業チーム数の増加による影響が大きかった。

櫂は当初の計画を修正し、経費を抑えた小規模催事から九州・山陰エリアを中心とした、中規模催事への方向転換を余儀なくされる状況に追い込まれていた。


《中途半端な小規模催事では現状の営業マン全員に成長チャンスを行き渡らせる事は不可能や・・かと言って、会場数確保の為にエリア内の催事頻度を上げれば悪循環になるだけ・・ショッピングセンター展開とは別枠で催事専用ホールを使った中規模催事を放り込む以外に手は無い・・そうなると、社員の増員が急務になるけど・・今の山木・納元の育成能力では追いつかない! 必要なのは即戦力足り得る社員の増員・・・その選別には、より多くの人間と接触する必要があるんや・・》


『森田さ~ん、勘弁して下さい・・この価格で請け負ったら、僕も上司に叱られちゃいますよ!』

『う~ん・・さっきの求人ドーダ社の営業担当さんは、明日にでも上司と一緒に再訪してくれるって言うてたで・・あからさまに比較したら失礼かも知れんけど・・長い付き合いになるやろうからな~、うちとしては最後まで検討する姿勢を見せてくれる企業さんにお金を使わせて貰うつもりですし』

『も、勿論・・当社も上司と検討の上、返答をさせていただきます!・・・ちなみに~、ドーダ社さんは如何程の価格を提示されているのでしょうか?』

『それを言ったらフェアじゃないでしょ~・・二度値無しで勝負出来る価格の提示をお願いしますね~ それはドーダ社さんにも同じようにお伝えしてますんで、一発勝負と思って検討をお願いします』

『わかりました早速、社に帰って上司に相談してみます・・関西の方は押しが強かですね』

 担当営業マンは溜息混じりの言葉を残して、そそくさと九州支社を後にした。


別働隊結成から約4ヶ月を経過し、櫂はこの間を社員募集・別働隊メンバー育成・支社内務と激務に追われたが、季節変化を感じる事も困難なこの状況においても、櫂を取り巻く環境は刻一刻と変化を遂げていた。


負の変化としては、成長株であった椛田が持病の喘息の悪化で戦線離脱せざる負えない状態となって退職を決意した事、長引くデフレの影響で九州エリアが全国でも失業率トップに躍り出た事が挙げられる。

物価下落による企業の収益悪化に伴う雇用の減少・賃金の低下はワールドアートの催事運営において購入者パワーの如実な低下に直結し、このスパイラルは未だに着地点を定める様子すら無い。

九州支社の利益はそれでも一進一退を繰り返す程度に落ち着いてはいたが、更なる冷え込みを予感させる経済状況を鑑みれば、騰がらう事を止めた途端に奈落に落ち込んでゆきそうな不安が付き纏った。


《俺はやっぱりマグロと一緒や~・・泳ぐのを止める事が出来んわ!》

 そんな事を考えながらも、櫂は意識を手元の催事工程表に移した


変化は負だけではない・・良い方向への変化もある。

別働隊の催事場確保が困難になり、メンバーを元の山木・納元チームに振り分けて活動させる機会が増えているが、この別働隊メンバーが既存メンバーに与える影響が少しずつ顕在化して来ているのだ。

一番に影響を受けたのは課長である山木・納元であろう・・・営業ターゲットを選ばない成長を遂げた別働隊メンバーを目の当たりにして、あの山木までが家族連れや年配層客への営業に汗を流す姿を見せ始めたのだ。

九州支社が長い年月を掛けて培った怠惰な体質を、根の部分から抜本的に改革する必要に迫られた櫂にしてみればこれは大きな変化であった。



『少し肌寒くなりそうですね』

 樋田が高層階の窓越しに歩道を急ぎ足で歩く先程の求人誌営業マンを眺めながら櫂にコーヒーを入れる。

『お忙しいでしょうが、明後日の朝には大阪に向かってあげて下さいね』

 伊月も樋田に続いて櫂に笑いかける

『明日の夕方には河上本部長が来てくれる・・暫くは勝手を言うけど頼むわ・・』

 櫂は恥かしそうに2人に答えるが、2人は笑顔のまま大きく頷いた。


櫂が河上に電話連絡を入れたのは2週間前である・・

『そんな前例はワールドグループ内では聞いた事もないぞ!  突然の無茶振りも大概にせいよ!』

 開口一番に河上は大声を張り上げた

『責任を持ってすべき業務はやり終えておきます・・前例が無いなら俺が前例です・・笑う者が居るなら笑ってくれて構いません・・・3日下さい・・俺は一歩も引きませんから!』

 櫂の口調は落ち着いてはいるが、逆に決意の硬さを河上に与える

『輪店指導名目で九州に3日間滞在しろと? お前個人の理由の為に儂を引っ張り出すつもりか?』

『はい、頼めるのは河上本部長しか思い浮かばないもんで・・・無理を言ってすいません・・』

『儂を何やと思うとるんや?・・・もう良えわ! 3日と言わず・・生まれるまで帰ってくるな! 安心せい・・儂も会社に閉じこもっての業務に嫌気を感じてた所や・・行ったるわい!』

 河上は投げ捨てる様に櫂の願いを快諾した。


一番の大きな変化は待望の第一子が生まれる事である

櫂は激務を捌き切る事で、大事を取って大阪の父親の下で出産予定日を待つ優里の為に、ワールドアートでも前例の無い出産休暇を取る暴挙に打って出たのだ。

就労環境が今で言うブラック企業に分類されるであろうワールドアートにおいて、男性営業マン、ましてや支社長が出産休暇を取る行為は、タブーどころか常識を逸脱した行為と思われても仕方ない・・加えて社内では孤立無援状態の櫂である・・社内評価は一段と急落する事は目に見えている。

それでも櫂に迷いは無かった・・・評価などより重要な事が有る・・


《ずっと一人で支えて来てくれたんや・・・流産した時も、お母さんが亡くなった時も・・・・・ここで傍に居られなかったら間違いなく後悔してしまう・・不要な人材と判断するならそれでも良い!》

 櫂の決意を変えられる者は何処にも居ない・・・それ程に強い意思での決断であった。


《あいつはいつでも背水の陣で話をしよる・・・糞坊主め!  良え機会や、お前がこの数ヶ月で何を目指して支社運営をして来たか・・この眼で確認してやる》

 社内でも窓際に追いやられ、ワールドアートの業務実態をより深く観察する機会を得ていた河上は、現況のワールドアートの利益に対してただならぬ危機感を持っていた。

河上は気付き始めていたのだ・・・明らかに不確実な、いわゆる天ぷら契約が横行するワールドアートの中で、支社全体の催事達成率・売上規模は小さいながらも、唯一既存の契約者への再販に頼らず、且つ確実性の高い契約を残せているのが九州支社だけである事を。


《社長には上手く伝えておいてやる・・・エネルギーを溜め込んで帰って来い!》



 何度も足を運んだ産婦人科の分娩室の広さに驚きながらも、櫂は看護師に言われるままに指定の着衣を着込んだ後、優里の横たわる分娩台の傍らで固唾を飲んでその瞬間を待った・・・・・

櫂が大阪に戻って2日以上が経過しても優里に陣痛の兆しは無かったが、今朝になって突然に慌ただしい変化を迎えたのだ。


『はい・・・さあ~もう直ぐですよっ! 頑張ろうね~』

 主治医が優里を励ますが、優里は脂汗を滲ませた苦悶の表情で小さく頷くだけである


《俺って何もやる事が無いんやな・・・枕元で様子はサッパリわからんし・・苦しそうなのと痛そうなのは伝わるけど・・どう苦しいのかもサッパリわからん?》


『ほらっ、もう少しよ! お父さんも応援してあげて!』

 慌ただしく看護師が言い放つ

《お父さんって?・・・俺か?》

 『頑張って・・・産め!』 即座に言葉が浮かんで来ない

 看護師は一瞬呆れた表情を櫂に向けたが、再びテキパキとした口調で優里を励ました。


 何れ位の時間が経過したのか? 

分娩室に入ってから随分と時間が経過した様にも感じるが、櫂の感覚は麻痺したように鈍ってしまっている。

『はいっ、全~部・・・出てきたよ~・・・良く頑張りましたね~』

 主治医はしっかりと生まれた赤ちゃんを抱き抱えてから、即座に看護師にその赤ちゃんを手渡した。


《うわっ! 生まれた・・・あれ? 泣かへんもんなんか?》

看護師は受け取った赤ちゃんを抱えたまま、分娩室奥に設置された見た事もない医療器具の並べられた小さなベッドまで小走りで移動するが、その際に赤ちゃんの首に巻きついていた紐状の物をくるくると取り去るような仕草を見せた。


《看護師さんの背中で赤ちゃんが見えんな・・・》

 一瞬、優里に目を移すが優里も疲れ果てた様子で赤ちゃんの行方を確認して医療機器前のベッドを注視している。

櫂には全く何が起きているのか判断出来なかったが、未だに自分の子供が誕生したという実感が湧いて来ない。

暫くシューッという吸引器の様な音だけが看護師の背中越しに聞こえていたが、次の瞬間に赤ちゃんの小さな泣き声が分娩室に響いた。


同時にのんびりと様子を眺めていた櫂の中心部分に不思議な衝撃が走る。

《何やっ この感覚!》

 それは経験した事の無い衝撃であった、恐らくこれが親になった瞬間の本能の芽生えなのであろうか?

櫂は泣き声を聞きながら漲る力が自分の中に湧き上がるのを自覚していた。

クリスマスまで1ヶ月足らず・・・第一子となる玲央はこの世に生を受けた


優里は退院後暫くの期間を父親の家で過ごす予定であるが、櫂はそうも言ってはいられない・・

名残は惜しいが櫂は再び自分の責務を果たすべく戦場に戻る準備を整えた。


『出来るだけ顔を見に来るから!』 

『どっちの顔? 私・・玲央・・』

 優里は眠る玲央を抱きながら、やはり笑顔で櫂を送り出した



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