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尖んがりジプシーの航路  作者: 下市にまな
第一章 新人奮闘編
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波紋

『今日はお仕事お休みですか?』 櫂は当初の作戦通り、展示会の会話には触れずに人間関係を作るための情報収集に徹した。

『私、平日の休みが多くて・・・まだ新人の看護師ですから・・』

『じゃあ、僕と一緒ですね!』

『えっ』

『僕も平日しか休みがなくて、なかなか友達とも遊べる機会が無くって』

こんな会話をしながら先輩たちが配券業務をする北館と南館を繋ぐ連絡通路を横目に通り過ぎる。

『今日はメルシーにお買い物で来られたんですか?』

『いいえ暇つぶしです、部屋に居ても仕方ないから無理して出てきただけなんです』

木村さんも当初と比べると櫂に対して気さくに話してくれるようになって来た所で会場入口が見えてきた。


 受付に座っていた秋爪が櫂の姿と木村さんを確認して受付の記入を促そうと立ち上がったが、すかさず井川が秋爪を制して首を横に振る。

『いらっしゃいませ、ゆっくり見て下さいね』 笑顔の井川はスルーパスで2人を入場させた。

本来受付では名前・住所・職業・来場回数等を記入してから入場してもらうのだが、これは次回の展示会に向けた統計をとる目的以外に、その間に来場者の情報収集と人間関係を作るための時間としての役割がある。

 北館入口からのエスコートだと察知した井川が情報収集完了済である事を見抜き、木村さんに余計な警戒心を芽生えさせない為にとった行動である。

『人吉、秋爪、お前らも配券に出たほうがええで・・・・・今日はもう・・・マジック付きの配券が此処に来ることは期待出来そうも無いで』

 井川の言葉の意味をようやく理解した人吉は『分かりました』と秋爪を従えて配券業務に出た。

 初めての接客を経験する櫂は『すごく綺麗』と感動する木村さんにベッタリとはくっつかずに、『自由に見てくださいね』と、少し距離を取る事にした。

いくら人間関係が出来たといっても、アパレルショップ店員のように後ろを付きまとわれたのでは木村さんの警戒心が再燃すると思ったからである。

それに明るく楽しい絵が好みの木村さんには勧めるべき作品は既に決まっている。

《木村さんの心理に配慮しながら結婚式の朝まで我慢するんや》

作家別の要所だけで少し説明を加えては木村さんの好みを確認しながら、ようやくコウ・カタヤマブースにたどり着いた櫂は確信を持った

  《間違いない、木村さんの好みは結婚式の朝や》

ゆっくりとコウ・カタヤマ作品の一つ一つを鑑賞しながら『本当に楽しい絵』と木村さんは目を輝かせた。

『せっかく今日は勇気を出して展示会に足を運んでくれたから、版画について少しだけお勉強して帰って下さいね』

櫂はそう言うと自然な流れを装いながら結婚式の朝の前の椅子を引いて、どうぞと木村さんに着座を勧めた。

木村さんは躊躇なく着座して結婚式の朝を覗き込んだ。


北館入口では林葉が小さな子供のいるファミリーを勧誘していた。

『山口さんの奥様がコウ・カタヤマ作品を好きでいらっしゃるのなら、是非とも展示会場に来てくださいよ』

奥さんは興味津々深々の様子ではあるが、そのご主人はあまり乗り気では無いらしい。

藤田はしゃがみ込んで、幼稚園に通い始めた女の子を相手に配券に印刷された絵を見せながら子供が邪魔にならない様に林葉の勧誘の援護をしている。

『今日は昼食を食べに来ただけやから』と断り文句をご主人が口に出そうとした所に女の子が大きな声で『パパ~私このお嫁さんの絵が見たい~』と目を輝かせて言った。

『だって~この絵の中にお嫁さんに、おめでとうって応援してるワンちゃん達がいるんやもん~

 それでそのワンちゃん達とケンカしてた猫ちゃんもこの日は仲良しになってくれてるんやで~』

『咲ちゃん、何言ってるんや?』ご主人が怪訝な表情で娘に問いかける。

『うん、この絵はみんなのおめでとうの気持ちが色になってるねん』笑顔の咲ちゃんが笑顔で父親を見る。

『すご~く感受性の豊かなお子さんですね~』 藤田が笑顔でご主人に問いかけると、ご主人も満更では無い様子で『いやいや~まさか~』と答えた。

 藤田のウインクでナイスアシストを受け取った林葉は『じゃあ、せめてこの絵だけでも咲ちゃんに見せてあげてください山口さん! 展示会場までご案内します』と、ジャンパーを脱いだ。

『それじゃあ少しだけ』ようやくご主人の許可が出て、ファミリーは林葉の案内で展示会場へ向かった。

林葉は藤田を振り返って声に出さずに (ありがとう) と口を動かして感謝を伝えて、それに答えるように藤田は笑顔で小さなピースサインを作って見せた。

藤田が咲ちゃんに言って聞かせた物語は、研修2日目に全員でディスカッションした際に、井川がこの絵に物語を作るとしたらどうなる? という問いかけをした事に対して全員で考えた物語である。

藤田は一人になっても手を休めずに笑顔で配券業務を続けた。


櫂と同じく受付をスルー通過した林葉は、ファミリーを櫂の隣のテーブルに着座させて版画の説明を始めた。

会場内では荒堀・光嶋のチームがこの光景を目の当たりにして焦りを感じていた。

会場内で商談中の営業マンは櫂と林葉が着座するテーブルのみで、先程に成約を済ませた池谷も客待ち状態で受付に待機中である。

接客をしている数名の営業マンも足の速い客を着座させる事が出来ずに、退場する客を見送る時間が続いているのだ。

研修中の素人同然である櫂達が自然と商談する姿は、既存の営業マンの焦りを増大させるには充分であり、これがさらに悪循環になって伝染してゆくのである。

櫂の商談は山場を迎える手前まで来ていたが、後方でそれを見ている井川にはフォローアップする素振りも無い。

勿論、櫂にもフォローアップして貰おうなどという考えは微塵も無かったが、とんでもない方向に話が進んでしまっていた。

版画の色もちの良さと、エディションナンバーによる希少性も伝えて、すでに木村さんも絵を所有したいという欲望を持つところまでは来ているが、どうしても分割の支払いへの抵抗が拭いきれない事に加えて、とんでもない本音が飛び出したのである。

『実は・・私・・・あちらに飾っている絵のほうが好きなんです』

木村さんの指差した絵は同じコウ・カタヤマの明るい作品ではあるが、結婚式の朝よりも数ヶ月前にリリースされた作品で、価格が既に120万円まで上昇してしまっている【自由の飛行船】という作品である。

ここに来て自分の作品絞りの甘さを思い知る事になった櫂であるが、即座に方向転換を試みた。

『なんだ~気づかなくてゴメンね、僕の趣味を一方的に押し付けちゃってたみたいで』

そう言うと、待っててくださいねと木村さんに告げて壁掛け展示の【自由の飛行船】を取り外して、結婚式の朝と入れ替えて設置した。

明らかに先程までとは違う憧れの目で【自由の飛行船】を見る木村さんは紅潮したように見えるが、14000円の分割支払い金額が、この絵では21000円となってしまう。

無駄遣いを無くして宝物を手に入れましょうと説得をしても、それをまだ崩しきれていない櫂には大きな痛手である。

『1日460円の無駄使いを無くすことから1日700円の無駄使いを無くす事に変わっちゃいますけど、一生の宝物になるものですから、妥協はして欲しくないです』

これは櫂の本音である。

同じ人に何枚もの絵を買って戴く必要など無いと考えていたし、そういう買い方をするのはコレクターと呼ばれる人達であるとも思っている。

だからこそ、金額が上がってしまった【自由の飛行船】でも、いつか版画のコウ・カタヤマ作品を手に入れたいと言ってくれた木村さんに妥協はして欲しくないのである。

『木村さんっ、勇気を出すのは今ですよ!』

『木村さんっ、宝物は人に与えられるものじゃ無く、自分で手に入れるべきです』

『木村さんっ、絵を手に入れなくても5年後に120万円は小さな無駄が集積して手元に残らないでしょう』

思いつく限りの説得を試みて、最後の握手を試みた。

『是非、この機会を逃さずに自分の誇れる宝物を手に入れてください!』 櫂は額の汗を拭うのも忘れて、握手を木村さんに向けて差し出した。

『森田君・・・・ゴメンなさい、私やっぱり買えない・・・』

この、木村さんの返答は迷いではなく、決定的なものであると感じた櫂はすぐに引き下がることを決めた。

『木村さん、僕の方こそ有難うございました、折角初めての展示会に足を運んでくれたのに嫌な思いをさせてしまったかも知れません・・・でも、いつか宝物の絵を飾って欲しいと思ったのは本当なんです』櫂は又これに懲りずに展示会には足を運んで欲しい旨を告げて最後の握手を求めた。

『私、嫌な思いなんかしてないですよ、こんなに一生懸命話してくれたのに勇気が出せなくてゴメン』 木村さんはそう言った後、櫂の握手に応じて展示会場を後にした。

《まだまだ、伝える力が無いな・・・》 少しの脱力感を感じながら櫂も木村さんの後姿を頭を下げて見送った。


受付で藤田の接客の為の配券業務に戻ろうと再びピンクジャンパーを着込んでいると、林葉も商談が終了したようでファミリーを見送りにやって来た。

『山口さん、今日は本当に有難うございました』林葉は深々と頭を下げてファミリーを見送った。

奥さんは名残惜しそうに会場をもう一度振り返ったが、子供を抱いたご主人に促されて頭を下げたあと会場を立ち去ってしまった。

『悔しい~、ご主人をどうしても説得出来なかった!』 林葉は歯を食いしばって悔しがったが、櫂と同じく即座にピンクジャンパーを着用して配券準備に取り掛かった。

櫂も林葉もそれぞれ自分の営業に思うところはあったが、それよりも2人の為に働いてくれた藤田に何が何でも接客してもらわなければと言う思いがある。

『森田君、北入口まで早く戻ろう』林葉の言葉に『おうっ』と答えて櫂も配券束を手にとった。

会場近場のエスカレーター横の配券指定場所では人吉と秋爪が立っていたが櫂達は笑顔でお疲れ様です、と言った後早足で北入口へと急いだ。

『何だか急いでましたね?』 秋爪は人吉にそう言ったが、初めての展示会に順応する櫂達に驚異を感じていた。


南館と北館の連絡通路まで急ぎ足で来た櫂と林葉は驚くしかなかった・・・・なんと藤田が男性をエスコートしてこちらに向かって歩いて来ているのである。

『嘘やろ、一人だけでエスコートしてきたん?』 林葉が呟いた。

エスコートされている男性はいかにもオタク風という感じの小難しそうなタイプで、藤田はそれとは対照的に楽しそうに話しながら大きな身振り手振りで画集を見せながら歩いてくる。

こちらに気づいた藤田は男性客の目も気にせず『やっほ~』とすれ違いざまに声をかけてから、バイバイと手を振った。

櫂も林葉と同様に開いた口が塞がらないといった感じですれ違う藤田を見送った。


展示会場では男性をエスコートして来場した藤田を見て、一層の焦りが蔓延していた。

『井川部長、あの子達本当に未経験者ですか?』荒堀らしからぬ粘りの無い口調で問いかける。

『勿論や・・・荒堀・光嶋・・お前達もあんな風に必死やったんやないのか?・・・』井川が答えた。

『そうですね、僕達もあんな風に試行錯誤していたかも知れません』光嶋は感慨深げに呟いた。

櫂達3人が会場から一番遠く、往来数も一番少ない北館北入口からエスコートによって自分たちの接客相手を来場させた事は、既存の営業マンだけでなく課長職である荒堀・光嶋にも少なからぬ衝撃を与えた。

やがてこの小さな衝撃が波紋となって広がり、刺激が少なくなった従来の体質に変化が出れば井川新設部隊の当初の役割を果たせたことになるはずである。

社長である中山と部長の河上が、ワールドアートのさらなる拡大路線を実行してゆく為に必要と判断し、それを託された井川が踏み出した一歩でもあった。


 【即戦力でイエスマンでは終わらない独自性のあるメンバー】

その時代に必要とされるメンバーを探し出して採用する為に随分な労力と時間を要したが、まだまだこれからが井川に課せられた仕事の本番である。


『まあ、あいつらのやった事は・・・・単なるキャッチセールスやけどな・・』井川が小声で呟いた

『えっ』 光嶋が聞き返したが、井川は微笑で答えるだけである。


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