分岐点
楽しい酒は翌日に残らないものだ・・
櫂は爽快な気分で天神ダブルビル内に入居する、ワールドアート九州支社に初めての一歩を踏み入れた。
『あっ、お早うございます・・・昨日はお疲れ様でした』
入室した櫂に気付いて、事務作業中の伊月と樋田が立ち上がる。
『うん、お早う・・・あれっ、今日は俺だけか?』
広々とした室内にはデスクをくっ付けて作った事務作業の島があり、その直ぐ前に大きな支社長の机が置かれているが井川の姿は見当たらない。
《営業マンは全員が催事に出ているとして・・・何かこれじゃ寂しい感じがするな・・》
『井川部長は早朝から大阪本部より携帯に直接連絡があったそうで、朝一番の新幹線で急遽大阪に向かわれたそうです』
伊月が報告する
『ふ~ん・・・で、桝村次長は今日は何処の催事場に居るんや?』
櫂は空席になっているデスクの椅子にドカリと着座すると、壁面に設置されたホワイトボードの催事工程表を眺めながら伊月に問い直した。
『はい、桝村次長も2日前に大阪に向かわれてます・・井川部長と同じく本部からの呼び出しです・・』
櫂の質問に答える伊月も、隣のデスクの樋田と目を合わせながら、立て続けの責任者の呼び出しに多少の違和感を持っているようだ。
『そうか~、それじゃあ今日は俺は羽を伸ばせるな!』
櫂は笑顔を2人に向けたが妙な胸騒ぎを感じていた。
《嫌な圧迫感や・・・誰かに覗き見されてるような妙な気分やで・・・まあ、動きが見えないんじゃ仕方ないわ・・・営業メンバーの把握でもしておくか・・》
櫂は九州支社で活動するチームメンバーを把握しておこうと、社員名簿を樋田に出してくれと指示した。
昨日に博多駅構内で櫂が会ったのは山木が率いるチームであるが、九州支社は他にも2チームが活動しているのだ。
桝村が率いるチームと、課長会議で見かけた事がある女性課長の納元が率いるチームである。
納元は影の薄いタイプで、九州転勤が決定するまでの櫂は正直な所気にも掛けた事が無かった。
《俺もしっかりメンバーの把握をしないとアカンし、メンバーにも早期に俺を把握して貰わんとな・・》
そんな事を考えながら九州支社の社員名簿に目を通そうとしたその時に、けたたましい電話のベルが鳴り響いた。
『はいワールドアート九州支社です・・・はいっ、お疲れ様です少々お待ち下さい・・』
電話に応対していた樋田は緊張した面持ちで保留ボタンを押してから櫂を見た。
『森田次長・・・河上部長からお電話です・・』
樋田が受話器を櫂に手渡す
電話口の相手を聞いて櫂の緊張は解けたが、『櫂・・儂や・・』 受話器越しの河上の声色から再び緊張が大きくなる
《この声のトーンは何かある・・・》
櫂は何を聞かされてもたじろぐまいと身構えてから応答した
『森田です・・お疲れ様です、何かあったんですね?』
『おう・・・・・・人事異動を伝える・・・・』
妙に河上の口調が重々しい
『はい・・』
意識はしないが櫂の返答もトーンが低くなる
『先ずは桝村やがな・・・大阪に戻って新設部署のお客様相談センターの室長を遂行しろと辞令が出た・・』
《・・!》
『それと・・井川部長やけどな・・・・・・井川部長も本日付けで大阪転勤が決定した・・・・』
《くっ!・・・・・》
『本日を持って・・・九州はお前が責任者や・・・・・おい・・櫂・・』
《くそっ、嵌められた!・・・低迷する九州で反対意見を持つ俺を孤立させてから絞め殺すつもりや! この九州を立ち直らせる事よりも、俺の嬲り殺しを優先事項にするとは正気とは思えん!》
『・・櫂・・・俺も数日中に九州に行く!・・・決まった事は受け入れるしかない・・切り替えるしか・・』
『・・・ええ』
それだけ言うと櫂は即座に受話器を置いた。
伊月と樋田が心配そうな表情で櫂を見たが、今の櫂には笑顔の演技は出来そうにも無かった。
『俺はちょっと考える事がある・・・・・・』
櫂は言い残すと、支社内にある小さな応接室に入ってしまった。
《確かに俺は聞いた! 井川部長と桝村次長を助けてやってくれと! 桝村次長と力を合わせて社員育成をしてくれという事で持ちかけられた転勤では無かったんや! 職権乱用で自分に楯突く者をどうしたい? それはもう経営者とは言わんのと違うんか!》
九州支社の長期にわたる低迷を考えれば、井川への転勤辞令は決して不思議な事ではない・・・但し、それが真っ当な人事であるならば僅か数日前に出された櫂の異動辞令理由にあのような説明がなされる事は有り得ない。
そこには低迷する九州支社の再建を後回しにしてでも、緻密な悪意を以て劣悪な環境に櫂を孤立させたいとする意図が読み取れるのだ。
煙草の苦味が無くなる隙もなく、櫂は立て続けに火を点けては苛立ちと共にそれを灰皿に押し付けていた。
《くそっ・・かったるい事しやがって!、今直ぐ本気の立て直しをせんと九州は二度と再生する機会を失う程に腐敗してるんやぞ! 俺の失墜を楽しんでる場合か! どこまで経営感覚がズレてしまってるんや・・ケツの穴の小さい奴達め!》
ほくそ笑む中山と棚橋の顔がチラついて、どのように思考しても2人の顔を拭えない事が苛立ちを増幅する。
《河上部長は何時知ったんや? このクソみたいに陳腐な人事劇に俺と河上部長は踊らされたって事か!》
今度は自分の判断に無理矢理合わせるように一緒に九州に連れ添ってくれた優里の顔が浮かび上がる。
そして昨日の歓迎会での楽しそうな笑顔・・・・
自分の納得を得てから、櫂はワールドアートを去る覚悟を持ち始めていた。
最後に世話になった人達への恩返しとして、全力で力を出し切っった後であればそれでも構わないと考えていたのだ。
今後の優里との生活を考えれば、天職と思えるこの職を手放しても良いと・・・・自分が認められない経営者の元で働く位なら、潔く零に戻ろうと・・・
《売られた喧嘩や・・・甚振るつもりならやってみろ・・・問題提起になる大きなしっぺ返しを食らわしたるからな!》
責任者の立場になった以上、暴れるだけ暴れてやろうと・・・櫂の心に再び赤い火柱が聳え立つ・・
《優里・・ごめんな・・・背中を見せて立ち去るのはちょっとだけ先延ばしになるわ・・》
『よ~しっ、伊月・樋田・・・状況は変わったみたいや・・・井川部長と桝村次長の無念も俺が全部引き継ぐ・・・俺に力を貸してくれ・・頼む!』
応接室から姿を現した櫂は別人のように引き締まった表情で2人に頭を下げた
『何となく状況は理解しました・・・私達こそ宜しくお願いします・・全力でサポートさせて下さい!』
伊月と樋田は思考の回転が早いようだ、一連の流れで状況の予測を組み上げていた。
昨日よりも遥かに結束が固まってゆくような伊月・樋田との疎通を感知しながらも、櫂の思考回路は熱を帯びながら高速で計算を始めた。
『まずは、桝村チームの補佐役と納元課長を呼び戻してくれ・・・緊急面談や!』
『分かりました・・直ぐに連絡します』
2人は手分けして即座に連絡業務に入った。
《愚痴はもう二度と口には出さん! この理不尽・・正面から買ってやる!》
昨日の歓迎会から一転、九州支社は既設のレールを逸脱して、作為的に設置された分岐点で新たに櫂を支社長として動き始めたのである。