在り方
想定通りの反応であった・・・意を決して優里に九州転勤を告げた櫂は返答する言葉が出て来ないまま聞き手になるしか無かった。
『何で櫂ちゃんなの! 他の誰かが行けば良いやん! 私は絶対に嫌! 又、一人で部屋に居る生活なんて・・・』
優里は顔を逸らしたまま憤った口調で吐き捨てた。
優里の立場では当然であり、真っ当な意見でもある・・・・だが・・・櫂は此処で大阪残留を選択する事は出来ないと考えている
幼少から自分が魅了され続けた心理の世界・・・学生生活の中で培った孤独への耐性と不条理への耐性・・社会人として東京で掘り下げて磨いた心理営業・・・
そしてどの時代の自分も靡く事を嫌った、外道に踏み込んだ権力者への服従・・・全ては線上で今の自分に繋がっているのだ。
《此処で残留したら今までの俺の全否定になってしまう! 此処で受けて立つ事が出来なければ俺じゃ無くなる!》
線上で成り立つ自分の感情を言葉に変換するのは到底無理な事である・・・・・・櫂は言葉を断片的に羅列するしか方法が無かった
『俺は自分の集大成の力を試したい・・・それで井川部長や桝村さんを助ける・・』
やはり自分は肝心の場面で言葉のボキャブラリーが減少するようだと感じながらも櫂は言葉を並べた
『自分は満足でしょう! でも私は絶対に納得できない! そんなに転勤したいなら一人で行ってよ!』
優里の心は閉ざされる一方である
『わかった・・・・・それでも行く・・俺は九州に行く・・』
理解されなくて当然という理性と、理解して貰えない落胆を同居させながらも、櫂は自分の決断を再度口にだして優里に伝えた。
優里がリビングを立ち去って、寝室のドアを閉じた事で二人の会話は途絶えてしまった。
世の中には色んな夫婦関係があるのだろう・・・河上は1年の殆どを帰宅せずに過ごすが、希少な帰宅も社員を引き連れて帰る事が多く、奥さんはそれを責める事無く笑顔で何も言わずに対応するのだそうだ。
自分より年下の棚橋も妻帯者だが、飲み歩く亭主を責める事無く仕事を応援する姿勢を崩さないという。
一度だけ櫂は河上の自宅を訪問した事がある。
出張続きを咎める優里と、チーム育成の板挟みに悩む櫂を見かねて河上が招待してくれたのだ。
そこに同じく招待されていたのが棚橋夫婦であった事は、櫂にとって相当に罰の悪い環境であった。
お互い相容れぬ思考を持った者が配偶者を連れ立って相見える状況は、今後を見据えての河上の計らいであろうが、棚橋にしても同じく居心地が悪そうな雰囲気であった。
只、棚橋の奥さんは非常にサバサバとした口調の明るい人で少し羨ましく感じた。
『もう主人は昔から遊ぶのが好きですからね~・・それは良いんですよ! 行き過ぎれば河上部長に叱ってもらいますし私もキツ~く叱ります・・・でも仕事は頑張っているのを知ってるし、私は家を守る事に専念しますよ!』
フランクに言い終わった奥さんは、棚橋と目を合わせて悪戯っぽく笑顔を浮かべてから、生まれたばかりの赤ちゃんをあやした。
次から次へと運ばれてくる料理の味を感じる事も出来ない程に、家庭と仕事の板挟みで悩む自分の為にセッティングされたメンバーに対して恥ずかしさが込み上げる。
仕事では社員の心理の先までを読み通して次の一手を打てる自分が、プライベートでは配偶者の意見に翻弄されて頭を擡げているのだから。
『ほらほら、森田君も奥さんも沢山食べてね』
河上の奥さんは非常に大人しそうな人であったが、終始笑顔を浮かべながら櫂や棚橋に話しかける河上を眺めながら頷いていた。
河上にしても棚橋にしても、普段と態度を変えている様には思えなかったし、2人の奥さんにも良く見せようという演技はどこにも察知は出来ない。
そこには普段のそれぞれの家庭のフランクな姿があり、時折垣間見える河上と棚橋の夫の顔にも明るさがある。
《こんな環境なら俺はもっと頑張れるやろうなあ・・・》
櫂は隣に座って、作り笑いで対応している優里を見てからもう一度羨ましさを感じていた。
帰路の車中で優里は『私はあんな風には考えられない・・』 ときっぱりと言ったが、それは既に予測出来た事だ。
《そう言うやろうと思った・・・そう思うのは夫婦やから分かるんかな?》
優里を選んだのは自分である・・・だから優里を無理矢理変えるのはおかしい事だ・・・しかし・・・櫂を選んだのも優里である・・・
《それだけ大切に思ってくれているんや・・・その点は俺のほうが幸せって事や・・》
櫂は自分にそう言い聞かせたが、その後も優里の出張を咎める態度に変化は無かったのである。
一人のリビングで感じるのはいつも優里と仕事に挟まれる圧迫感である。
それでも今回の九州転勤への決意は揺るがなかった・・・自分の存在を否定は出来ないのだ。
心の片隅で無意識に覚悟する最終決戦が、一層に櫂の心を確固たるものにしていたのかも知れない。
朝礼からチームメンバーは櫂の表情に何かを感じ取っていたのだろうか・・この時点で櫂の九州転勤の事を知るのは村下だけである。
チームメンバー全員を引き継ぐ事を告げられた村下はしっかりと櫂の目を見て答えた
『森田課長、今まで本当に有難うございました・・・精一杯メンバーの面倒を見ていきます!』
『おう、頼んだで・・・明日の朝礼で話そうと思う・・最後の朝礼や』
櫂はそう言うと、あの日と同じように村下に缶ビールを投げ渡してから囁かな乾杯をした。
『おはよう・・・・今日は皆に話す事・・・何も考えて来んかった・・・』
櫂は笑顔でそう言うが、やはりメンバーは真顔のままで櫂に集中している。
『お前達・・成長したよな・・俺の表情で何かあると察知しやがって・・大体は予想通りの事を言うぞ・・しっかり聞けよな!』
この時点で既に竹橋と下田は涙で目を真っ赤にしてしまっていた
『俺は九州に行く事になった!・・・・森田チームは今日で終りや・・』
伊上は表情を変えまいと口を真一文字にして耐えているが、見る見る目が赤くなる
市田と鎌谷は眉間に皺を寄せて、話す櫂の目を見返した。
『この森田チームメンバーは全員が大阪に残って、これからも力を発揮してくれ! 新課長は村下や!・・どんなチームが相手でもお前達なら絶対に負けへんぞ!』
村下も拳を強く握り締めて、決意を更に固めた。
『言うとくけどな・・・次に合う時はライバルやぞ・・・俺を失望させんなよな! この朝礼で俺は会場を離れる・・・数日後には九州に旅立つ・・村下を頼んだぞ。 最後にちゃんと言うわ・・今までありがとう・・・最高に心強いメンバーやったで・・』
解散のこの日までトップを譲らなかった森田チームはこうして最後の時を迎えたのである。
別れを惜しんで一人一人と語り合いたいが、櫂は足早に会場を後にする事にした。
皆んな此処から又、前進してゆかなければならないのだ・・・潔く振り向かずに自分の目指す道を行くべきだ。
『森田課長!・・・俺も九州に行きます!』
会場を出る櫂の後ろ姿に声を掛けたのは市田である
『阿呆か・・・お前が一番村下チームに必要やろが! 大体お前と離れてやっと清々しい気分なんや!』
『・・・わかりました・・・じゃあ・・次にお会いする時は・・・・・・・』
深々とお辞儀をして顔を隠す市田に見送られて櫂は最後の会場を旅立った。
九州への移動は一週間後である・・・
会場を後にした櫂は自分の身支度を整える為にそのまま自宅へと直帰した
社宅扱いとなる転勤先の住居も決まってない状態である・・・するべき事は山積みであった
優里と顔を合わせると言葉が出なくなりそうで心が重いが、そうも言ってはいられない。
櫂は自宅マンションの自宅ドアを開けて唖然とする・・部屋中に散乱するダンボール箱に囲まれて優里が荷物を詰め込んでいるではないか。
『お帰り・・・私、櫂ちゃんが出張に行ってる間に仕事を辞めてきたよ・・』
『えっ?』
『私も一緒に九州に行く! 夫婦は別々なんて・・やっぱりダメやわ・・それに目ぼしいマンションも数件見つけておいたから後で選んでね・・』
『ええっ!』
『早く荷物の詰め込み手伝ってよ~・・私一人で大変やったんやから! 引越し業者に先にダンボールだけ持って来てって頼んだら凄い量で驚いた!』
単身赴任を覚悟していた櫂は急展開にポカンと口を開けるしかなかったが、またしても優里に自分の事情を押し付ける事になってしまったのだ。
『折角の仕事まで辞めさせてしまったんか・・・』
『何を言ってるの、私のは暇つぶし・・・櫂ちゃんはしっかり働いてよ! 九州で・・』
こうして僅か数年を過ごした西淡路のマンションを出る事となった櫂は、優里を伴って九州へ向かう事となったのである。
引越し業者によって、ものの1時間程度で生活臭を無くした無機質なマンション室内は妙に静まり返っていると感じたが、その空間にある全てと共に次の地へと旅立てる喜びでもある。
『じゃあ、私達は先に転居先に向かいますんで』
引越し業者はそう言うとトラックを出発させた
『そしたら俺達も行こうか!』
『うんっ、行こう!』
優里の返答を確認して、櫂は自家用車のキーを捻ってエンジンを唸らせる。
ひっそりとした旅立ちではあるが、優里を伴う事で櫂の情熱は更に熱く燃え上がっていた。