第九話 言葉の強さ
俺は自分が物覚えのいい方だとは思わない。
例えば街中で俺の名を呼ぶ人間がいたとしても、大半の場合はそいつの名前と顔も忘れてしまっている。
しかし勘違いして欲しくはない。俺は決して冷徹な訳では無いし、特別仲が良かった程度の連中なら名前を思い出せる。
しかしクラスで特別仲の良い連中というのも、それこそ限られてくる。特別仲が良いと言えば気兼ねなく話しかけることができ、気兼ねなく笑い合い、気兼ねなく共に悪ふざけが出来きるような人間関係の事を指しているとするのなら
「おい、エータロー。何そんな所で突っ立ってんだよ。」
拓。
「早く座れよ櫻葉。」
菜月。
「櫻葉くんは…お昼、食べないんですか?」
春咲さん。
俺はこの三人がクラスで最も仲が良く。信頼を置ける相手だと言えるであろう。
美術の授業の一件から三週間の時が流れた。
高校二年の七月の初旬。初夏の気配がジリジリと訪れ、聞こえてくるセミの鳴き声が騒がしい。
昼休み。屋上の用具入れの後ろ。
最初は俺と春咲さん。それに加え拓。そして日数の経った今では菜月までもがこの場所に集まっていた。
十文字と話した内容は、特に誰にも言ってない。
聞かれなかったってのもあるし、話すことも特にない。ただ、十文字と春咲さんが中学からの同級生だって事はかなり驚いた。
『伸ばされた手を拒絶した』…か。
「櫻葉くん?」
春咲さんが首を傾げながらこちらを見てきたので、俺はニヤリと笑って返した。
「いやいや、なんでもねぇよ。食おうぜ。」
「あの、櫻葉くん。」
俺が弁当を広げると同時に、春咲さんは申し訳なさそうな声で言った。
「どうした?」
「市山くんも菜月さんも…この前はありがとうございました!」
ペコりと春咲さんは頭を下げた。そして頭を上げると同時に、ズレた丸眼鏡を治す。
この前…?あぁ小村との一件か。
「私は…、結局なにも小村さん達に言い返せなくて…櫻葉くん達が助けてくれなかったら、私は…。」
「いいっていいって春咲さん。どうせエータローや俺は小村達に前から嫌われてたんだしさ!それにお礼言うの何回目?もう三週間も経ってんだぜ。」
拓が笑いながら言った。
ちょっと待て。今聞き捨てならないことを聞いたぞ。え?俺小村達から嫌われてたの?なに初耳。
「ひなったんは可愛いなぁ。あたしはそんな謙虚なひなったんが好きだから許しちゃう!!」
菜月が春咲さんに抱きついた。
正直、春咲さんと菜月が仲良くなっているのは驚いた。
菜月は見た目だけなら春咲さんが苦手とする十文字グループと同じ部類だ。菜月はいつもツンケンしているが、もしかしたら社交性が高いのかもしれない。
それとこんな所で百合営業をするな。健全な男子高校生が二人もいるんだぞ。
春咲さんは照れくさそうに笑っていた。そして、俺の方を見つめる。
「櫻葉くんも、ありがとうございま…むにゅ!!」
俺は初めて屋上で春咲さんと話した時と同様に、春咲さんの両頬を両手で挟んで、話すのを辞めさせた。
ぷにゅっとタコのような口になった春咲さんは、声を上げる。
「んんんんん!!んんんんんんん!!!」
「もうそれ以上言うなよ。春咲さん。」
「ん?」
「俺達は春咲さんを助けたくて助けたんだ。別に春咲さんの為じゃない。それに、そんなにお礼や謝ってばっかだと、その言葉が安くなる。」
「『言葉は見えない凶器』って聞いたことあるだろ?例に挙げたのは悪い意味だけど、言葉ってのはそれだけ力強いものなんだ。だからそんな簡単にお礼を言うな、謝るな。本当に嬉しかった時に、『ありがとう』っていえ。本当に申し訳なくなった時に、『ごめんなさい』っていえ。言葉はただ会話をするだけのツールじゃない。自分の気持ちを、想いを乗せることの出来る代物なんだ。」
「だから軽々しい気持ちを、言葉に乗せるな。俺達は君からお礼を言われるために助けたんじゃない。たった一回、自分のその時の気持ちをぜんっっぶ乗っけて、その気持ちを相手に伝えろ。それでも…」
綾小路に振られた時の、嫌な記憶がフラッシュバックする。
『私達、別れよ?他に好きな人できちゃった、』
「…っ!!それでも、どうしても受け止めきれない奴だっている。…そしたら、俺達のところへ来い!」
『そんな櫻葉くんを、私は尊敬します。』
『大切だからこそ忘れられないんだと思います。ほんとに好きだったから忘れられないんだと思います。思い出が大事だから、忘れられないんだと思います。』
『そういう気持ちって、とっても大切だと思います。』
「君が俺にしてくれたみたいに、春咲さんの隣に俺が居てやるから。」
春咲さんは大きく目を見開いた。俺は春咲さんの頬から手を離し、春咲さんを見つめる。
そして、春咲さんは眼鏡を外した。セーラー服の袖で顔をゴシゴシ拭って、笑みを浮かべた。
「はい…!“ありがとうございます”、櫻葉くん。」
春咲さんの今の言葉には、本当の彼女の気持ちが乗っていた。
****
「腹減った!」
「うるせぇなぁ。自分の肉でも食ってろ。」
「ぶふぉ!! 」
「お前ら殺すぞ。」
帰り道。俺と拓と菜月と春咲さんは帰路を共にしていた。
菜月がさっきから『腹減った』、『腹減った』とうるさいので、一番身近な肉を紹介したところ何故か殺害予告をされてしまった。結果俺達は学校近くのファミレスへ向かっている。
期末テストも近くなり、俺達は最近図書室で勉強を教え合っていた。まぁ教え合っていたと言っても、ほんとんど春咲さんゲーだったけどな。
なんだよ三角関数って、公式多すぎだろ。覚えきれねぇよ。
てか、考えてみれば殆ど談笑してて勉強してねぇんだよな。友達との勉強会は絶対お遊び大会になるんだよなぁ。やっぱやるもんじゃねぇな。
「ごめんな、春咲さん。テスト勉強の邪魔して。」
「う、ううん。私も…その、楽しかったですから…。」
「そっか…ありがとな、春咲さん。」
「あっ…!…えへへ。ありがとうございます。」
無意識に春咲さんの頭を撫でると、春咲さんの顔が今日の弁当に入っていたトマトの様に赤くなっていった。嬉しそうに微笑みながら、恥ずかしそうに顔を俯けた。
あぁ、いや。別にそういうつもりで撫でた訳じゃ…。
何となく気まづくなり、視線を前を歩く拓と菜月に向ける。
二人は今世紀最大のゲス顔をこちらに向けており、俺は思わず叫んだ。
「んだよ!!」
拓が口を開く。
「いやもう青春。もうお前らが見えない。見えても目に悪い。直視するやばさは双眼鏡で太陽覗くまである。マブシー!!」
何訳の分からないことを。
菜月が腕を俺の肩に回してくる。
「なぁ櫻葉。わたしはそろそろだと思うぞ?綾小路由奈のことなんて忘れろ!!忘れろ!!」
「忘れられたら苦労しねぇよ。はぁ…。」
「なんかごめん。」
菜月が本気で心配するような目で見てくる。おいやめろその目。
「お前が落ち込んでるっていうの完全に忘れてたわ。……なに?まだ未練でもあんの?」
「あるよあるよありまくりだよ。綾小路の事は……多分まだ好きなんだ。」
はぁ。だっせ。
三ヶ月も前に別れた彼女の事を想ってる元カレとか、重すぎだろ。
しかもそれをこいつらに聞かれるなんてよ…。
気付くと既にファミレスの前に俺達は来ており、中に入る。
店員に四人席まで案内され、俺達はそこに腰をかけた。不意に隣の四人席から声が掛けられる、
「あれ?栄太郎君?」
は?おいおいマジかよ…。俺は隣の四人席の連中を確認する。
同じ大ノ宮高校の生徒とは思えない着崩した制服を着ており、既に運ばれてきた食事をつついている生徒達。
「うわー。」
菜月。
「修羅場…!!」
拓。
「…!」
震えながら俺の袖をギュッと掴む春咲さん。
菜月と拓の声も乏しく、俺は彼らを見つめた。
井出洋介、真宮愛華、十文字昴…そして、綾小路由奈。
二年A組スクールカースト最上位グループ。十文字グループが隣の席に腰を掛けていたのだ。
ゴクリ。唾を飲む音が、俺の耳に響いた。