八
「……おはよう、理沙」
ふっと和らいだ表情をしながら、寝起き特有のちょっと掠れた声で名前を呼ばれた。
頬に熱が集まり、心臓がうるさく音をたてる。普段見ることのできない寝顔を見れたからだろう。それに、この声はずるい。照れない方がおかしいくらい甘くて、艶がある。和らいだ表情も、甘さを含んだ声も卑怯だ。
イケメンでエロボイス。
彼のことを知っている人がよく口にする言葉だ。まさにそれは当たっている。
立花になら騙されてもいいと思う人がいるのも納得してしまう。女性が好かれたい、愛されたいと望んでしまう魅力が無駄にあるから困ったものだ。異性を惹きつける魔力でも持っているんじゃないか、とありえないことを噂で言われても仕方がない。
「おはよう、立花」
おはよう、と口にしながらも立花は寝惚けた様子で、私の肩に顔を埋めている。
起きる気がないのだろうか。ぼんやりしたまま、甘えてくる彼を突き飛ばすことなどできるはずがない。看病をしてくれた相手に対して、文句を言えるはずがないのだ。疲れている彼に「お疲れさま」とお礼の気持ちを込めて、優しく告げる。
「ん……あれ?」
私の声を聞いて、ぱっと立花は顔をあげた。
「なんでここに?」
ベッドで寝ていたはずの私が自分の腕の中にいるのが不思議なのだろう。疑問を浮かべる立花の腕に手を乗せた。
「ついさっき目が覚めちゃって、立花が帰ってなかったらびっくりしたよ。一番びっくりしたのは、引っ張られたことかな」
「それは悪かったよ。体調が悪いのに……熱は?」
「大丈夫」
「一応、まだ寝てた方がいいよ」
心配そうに私をまっすぐ見つめてくる。自分の体調なら、自分がよくわかっている。今ではもうすっかり具合の悪さは抜けていた。そんなに心配しなくても大丈夫なのに。
「平気だけど」
「一緒の部屋にいる時に、添い寝しないなんてことなかったし寂しい? 俺が隣にいないと寝れない?」
嘘なんてついていないのに、疑うような目を向けられる。そして、立花はまるで思いついたというように質問を投げてくる。
そんな理由から眠るのを拒否しているわけではない。確かに一緒の部屋にいて、寝る時にはよく添い寝をする。抱き枕扱いされるのはいつものことだ。
「そんなことっ」
そんなことない。
言い切ろうとして、言葉を飲み込んだ。一人で眠るのは慣れている。
でも、立花がいる時には一緒に眠る。立花がいるのに同じベッドで眠らないというのは居心地が悪い。いつの間にかそれが当たり前になっていた。
隣に誰もいないのは寂しい。自分を包み込んでくれる腕がないと安心できない。立花がいると一人で眠るよりもぐっすり眠れる。
「ううっ」
依存しているわけではない。けれど、一人は寂しくて悲しいものだ。いつもの日常が少し違うだけで違和感がある。
体調が悪い間、そんなことは気にならなくてすんだのに、落ち着いてきたらしっくりこないのだ。眠る時、隣に立花がいることは当然になっている。
反論できない私に笑顔を向けた立花は、ひょいっと簡単に私を持ち上げた。そして、ベッドに横になると寝る体勢を整える。
「一人で寝るのは俺が寂しいから、一緒に寝てよ」
一人でいるのが寂しいから浮気をするの?
問いかけたくなった。恋人同士といってもずっと一緒にはいれない。側に誰かがいないと落ち着かないというのなら、立花はどれだけ一人が嫌いなんだろう。
もしかしたら、何か事情があるのかもしれないけれど、私には浮気をする理由を想像ができない。だって、もう彼だけで手一杯なのだ。
どうして恋人じゃない相手に時間を割けるのかわからない。他の相手のことを考えて、受け入れることなんて無理だ。立花の真似をして、彼氏さんたちなんて作ったら、自分がおかしくなってしまうだろう。きっと心も体もついていけなくなる。
「さっきまで一人で寝ていたでしょ」
「そうだね。でも、理沙を抱きしめていると安心するんだ。ぐっすり寝れるし」
「私が起きたらいないのに?」
「今日はいるよ。理沙の側にいる」
立花の左手がゆっくりと私の髪を撫でる。
「まだちゃんと治ってないから、立花にうつるかもしれない」
「うつったら看病してもらうから」
「誰に?」
料理がうまい彼女。美人な女性。優しい人――より取りみどりの中から誰を選ぶのだろう。他の男性から「嫌味だ」と言われるほど、羨ましい選択肢の幅広さがある。
「もちろん、自分の彼女に」
「そう」
さらりと流せば立花は顔をしかめる。私の顎を持ち上げ、まっすぐに見つめてきた。
「理沙のことだよ」
「……私?」
「そうだよ」
「なんで?」
「俺の大好きな彼女だから」
肩口に顔を埋め、立花が私を抱きしめる。彼女であることを刻みつけるように、ちくりと首筋に痛みが走った。
熱いと感じるのは、自分で思ったよりもまだ体調が戻っていないからだろうか。髪を撫でる優しい手つきに眠気がゆるゆると落ちてくる。
隣にある温かさに、心はゆっくりと落ち着いていく。寂しさなんて少しもなくて、違和感なんて消えていってしまう。
側にいることが当たり前ではないのに、安堵して気は抜けていくのだ。瞼はいつの間にか心地良さに閉じていた。