六
雨に濡れて帰ってから風邪を引いた。すごく不本意なことに高い熱が出て、頭が割れそうに痛くて起き上がりたくない。私の体調はかなり悪い。だというのに、同じように雨に濡れた立花は、元気そうでその姿にムカついてくる。
元気な姿にムカつくのに、わざわざ仕事を休んで側にいてくれることが嬉しい。他の女性のところに行かないことが嬉しくて仕方ない。
病気で弱っているからだ。一人は寂しいから、誰かが一緒にいることに安心して、嬉しくなる。相手が立花だからじゃない。
ぐるぐる考えながら、立ち上がる彼の服を掴んだ。
「理沙?」
弱々しく掴んだ服。すぐに抜け出せる弱さなのに、立花は振り払うことなく側に来てくれた。
「もしかして、寂しい?」
喉が痛くて喋りたくない。声を弾ませる立花を睨んで、私は軽く咳をした。
「側にいるよ」
安心して、というように背中をさすってくれる。ああ、ほだされそう。ずっと側にいてくれるはずがないのに、他の女性の場所に行く相手なのに、身を任せたくなる。気がゆるりと抜けて、ぼんやりと彼を見上げる。
「おやすみ、理沙」
薬を飲んでから眠くなり始めていた私は、ゆっくりと瞼を閉じた。
気がつけば、かなりぐっすりと眠っていたようだ。立花と会話したのが夜の七時で、今は朝の五時――寝すぎた。
表示されている時間に驚きながら、身体を起こした。ベッドの脇にあるサイドテーブルには水差しとコップが置いてある。コップ一杯分の水を飲んで、ゆるく息を吐く。
思い出すと消し去りたい記憶がある。具合が悪くて食べたくなかったし、身体がだるくて起きたくもなかった。
そんな私を起こして、お粥を食べさせてくれた立花に感謝している。しているけれど、「はい、あーん」とにこにこ笑顔でされたのはよくない。すごく消し去りたい過去だ。
薬のおかげでだいぶ体調は落ち着いているけれど、喉がまだ痛くて、アイストローチを口の中に放り込んだ。
「……帰ってなかったんだ」
床に座り、ベッドに背中をつけて眠っている立花の姿に小さく笑みが零れた。
簡単に嘘をつくから、約束をあっさりと破ってしまうから、私は立花の言葉を信じていなかった。
相手が望む優しく甘い言葉を口にするのに、他の女性のもとへ躊躇わず行ってしまう。紫陽花のように、相手に合わせて色を変え、女性の間を渡り歩く。そんな人物だと昔から有名だった。
色を変えるといっても、私に合わせているのかすごく微妙だ。どちらかというと振り回されて、合わせているのは私の気がする。
「立花、寝ているの?」
寝ている姿を他人に見せるのが苦手だ、と口にしていたのに立花はぐっすり眠っている。
実際、寝たふりはよくするけれど、私が起きるよりも早く目が覚めている。だというのに、今日は眠りの世界に落ちていた。疲れたのだろうか。誰かを看病するようには見えない彼には、きっと慣れないことだっただろう。
羨ましいほど長い睫毛が端正な顔に影を作っている。起きている時に感じる色気はあいかわらず存在しているけれど、無防備な寝顔はどこか可愛らしい。
そっと立花を起こさないように気をつけてベッドから起き上がる。
「ありがとう」
小さく呟いて、私は立花の頭を何度かゆっくり撫でる。すると、両手を伸ばした彼に身体を包まれた。
起きているのだろうか。確認しても寝息を立てている様子から、寝惚けて私を掴まえたことがわかる。
狸寝入りというわけでもないようだ。無理に抜け出そうとすれば起こしてしまう可能性がある。わざわざ仕事を休んで、看病してくれた立花を起こすのは申し訳ない。抱き枕扱いされる時と同じように身体から力を抜いた。
いつ起きるのかな。
暇な時間を潰すために立花の顔を見つめた。いくら美形でも彼氏の顔は見飽きると思っていたけれど、意外と見飽きることがない。
知らない表情や側面を見るたびに、美人は三日で飽きる、という言葉に疑問が浮かんだほどだ。関わりのない美人なら、確かに三日で飽きる可能性はあるけれど。
見ていればわかる。いやになるほどわかってしまう。自分の見た目が嫌いではないし、卑下するつもりはないけれど、私と彼では釣り合わない。立花の隣に並ぶのは、雑誌に載るような女性がふさわしいと思ってしまう。
それを自覚しながらも、やっぱり自分からは彼女という立場を手離せない。恋人という関係に執着しているわけではないのに、自ら壊すことができない。
この関係はおかしいのだろう。おかしくて理解できないものでも、私たちの間では別になんの問題もないのだ。お互いに、何かしらの情が芽生えている可能性はある。
青春時代のようなきらめきやときめきは存在しない関係だけれど、これでいいと思ってしまう。いつまでも続けることはできないと感じながら、今はただ側にいてくれる立花を見つめた。