ニ
仕事を終えて、コンビニに立ち寄った。疲れた時には甘い物を食べたくなる。どのお菓子を購入しようか悩んでいると、後輩の宮部護を見つけた。
帰宅途中の後輩にわざわざ声をかける必要はないだろう。なんの話をすればいいか思いつかないし、仕事帰りのコンビニでの買い物を邪魔するのも悪い。
チョコを中心に、コンビニスイーツを見ていく。なかなかこれだ、というものに巡り会えない。
どうしよう。何も購入せずに帰宅しようか。でもせっかく立ち寄ったのに、購入せずに帰宅するのはもったいない。とりあえず、目の前の商品棚に置かれた季節限定のチョコに手を伸ばした。最後の一個をゲットするのはなんだか嬉しい。
「え?」
お菓子の箱に私の手が触れる。そのちょうど上に大きな手が重なった。相手も同じお菓子を取ろうとしたのだろう。
「あっ、すみませ――」
すごく食べたいわけじゃない。ただなんとなく手を伸ばした。だから、本当にこのお菓子を食べたい人に譲ろうと振り返って驚いた。
「いえ、俺が後から手を伸ばしたので……って、佐川先輩?」
重なっていた手がどかされる。私より大きくて、ちょっと冷たい掌が触れていた場所に視線を落とす。
立花にばれたら怒られるかな。まあ、普通の彼氏なら怒る可能性があっても、彼の場合は気にしないか。彼氏以外の男に近付きすぎるな、なんて嫉妬するような性格じゃない。もし嫉妬されたとしても、私には意味がわからないだけだ。
浮気者の立花には、誰かと触れ合うのは簡単で、キスだってきっと挨拶みたいに軽い。
「宮部くん、お菓子好きなの?」
「え、や、あの……」
言いにくそうな表情にくすりと笑みが零れた。
「別に甘い物好きでもいいんじゃない?」
手に取ったお菓子の箱を宮部くんの掌に乗せる。
「スイーツ男子ってありだよ。パティシエには男性もいるし」
気にしすぎ、そう付け足せば宮部くんは少し恥ずかしそうに笑った。
「宮部くんって可愛い」
可愛げのない立花とは大違いだ。護という名前だけれど、宮部くんが相手を守る感じはしない。どちらかというと、相手が守ってあげようと思える可愛さがあった。
「嬉しくないですよ」
むくれた顔をしながらも、しっかりとお菓子を手にお礼を口にする姿は微笑ましい。
「男の子だもんね」
くすくす笑いながら、自分の購入するお菓子を探し始める。もう話すことはないし、長時間コンビニに居座る気はない。
「お会計行かないの?」
宮部くんに背を向けて、お菓子のパッケージを眺める。やっぱりどれも今一つ納得できるお菓子がない。いっそのこと、今日はもう帰ろうか。
「男の子じゃなくて――」
どうするべきか悩む私の右手が掴まれた。言い聞かせるような、しっかりと私に教えようとする声が強く響く。
「俺は男です」
振り返れば、どこか苛立ちを含んだ顔をした宮部くんがいる。彼が持っているお菓子が少し笑いを誘うけど、そこは空気を読んで我慢する。
「知ってるよ」
「わかってない。先輩はわかっていません」
「わかってないのは宮部くんかもしれないでしょ」
腕を振り払い、適当にお菓子を一つ取る。
「もう私は帰るから、宮部くんもさっさと帰りなよ」
早足にレジに向かえば、慌てたように私の名前を呼びながら宮部くんがついてくる。
「宮部くん、私の名前を連呼しないで。目立つから」
いくら客数が少ない時間帯でも、店員はいるのだ。たまに立ち寄るコンビニに、今後しばらく来れなくなる。
いや、今日の状況を興味深そうに見てくる店員とはもう顔を会わせたくない。しばらくどころか、もうこのコンビニを利用しなくなる可能性がある。
「あ、あの時間も遅いですし、家まで送ります。怒らせたお詫びの意味も込めて……」
「いいよ、別に怒ってないから。じゃ、また明日」
短い挨拶を口にしても、どうやら律儀で気にしすぎの宮部くんは納得できないようだ。
「なら、お菓子の感想ちょうだい。譲ってあげたんだから」
「それなら先輩に一つあげます」
「宮部くんほど食べたいわけじゃないから、いいよ。適当にお菓子を探してただけだし」
代金を支払い、お菓子を手にコンビニを出ようとして足が止まった。
道路のちょうど向かい側に彼氏がいる。隣には見知らぬ女性がいて、まるで恋人同士のように腕を組んでいる。
気のせいではない。
見間違いでもない。
立花優雅という存在感の大きさは人目を惹きつける。隣に並ぶのは必ず美人な人ばかり――平凡な私が並ぶと見劣りしてしまうだろう。それは何度も感じたことだけれど、私は自分の見た目を嫌いになんてならない。だって、これが私なのだから。
苦笑を浮かべて瞳を閉じる。
並ぶ気はない。
興味なんてない。
嫉妬なんて浮かばない。
ああ、またか。そう呆れてしまうだけだ。慣れすぎて、当たり前すぎる光景になんとも思わない。諦めたわけでもなく、ただその事実を受け止める。
彼氏の浮気現場かもしれないのに――いや、浮気現場だろう。いつだってそうだ。隠す気もなく、浮気をしなければ生きていけない男。
たった一人の相手では満足できない。愛を求めて、甘さを求めて、スリルを求めて、多くの女性と付き合う。恋愛をゲームのような遊び感覚で渡り歩く。そんな彼が本気で誰かを好きになることはあるのだろうか。誰かと結婚することがあるのだろうか。
想像できない未来を思い浮かべ、小さい溜息をつく。
がさり、という音がして、私の口の中に甘いお菓子が転がり込んだ。甘くてほろ苦いビターチョコがゆっくり溶けていく。袋を手にした後輩の姿に、口の中にお菓子を投げ込んだ犯人はすぐに分かった。
「え? 宮部くん」
「一つだけあげます」
どうして? どうして、宮部くんは苦々しい表情を浮かべているのだろう。
「先輩、いやならいやだって表情に出さないとだめですよ」
ちらりと彼が確認したのは、道路の向かい側だ。彼氏だと紹介していないのに、どうして気付いたんだろう。立花の隣には腕を絡める女性がいるのに――。
「感情を出すのが苦手ですか? 先輩にはたくさん面倒見てもらっているから、そのお礼に俺に愚痴言ってもいいんですよ」
ふわりと心が温かくなる。他人から向けられる優しさは素直に嬉しいけれど、立花の浮気について愚痴を言うつもりはない。
「優しいね。でも、いいの。気にしてないし、傷ついてもいない。だっていつもそうだもの。私に隠す気がないみたいだし」
女性の甘い香りをつけて堂々と私に会う。立花の隣に知らない女性がいる。ただの知り合いとはいえない親密さを漂わせ、腕を組む姿。偶然見かけたキスシーン。
さすがに気にしないといっても、自分以外の女性とキスしている場面を見た後は絶対にキスさせなかった。間接キスみたいで気持ち悪いもの。
「あの人は――紫陽花だから」
脳裏に浮かぶのは、青紫、艶々と光る緑の葉。寂しい湿った雨の香り。手にしていた赤い傘。
「紫陽花?」
「やっぱり男性には花言葉はわからないか」
あなたは美しいが冷淡だ、移り気。そういった意味を持つ紫陽花は、彼にぴったりだ。
「また明日、宮部くん」
伸ばされた手を避けて、私は歩き出す。もう溶けてしまったはずのお菓子が、まだ口の中にあるみたいに甘くて苦かった。