十六
「ごめん。理沙の好きなガトーショコラを食べ終わったら、帰ろうか」
いろんな女性と付き合っているから、相手をうまく誘導して自分の知りたいことを聞き出すのがうまい。ある意味、特技と自慢できる要素だ。
でも、私にはそれをしない。傷つけないために無理に聞き出さない。待っていてくれる。
変なところで線引きをしている立花の想いは、いつも私には温かすぎる。困った浮気者の彼氏は、わかりにくいことが多いけれど私には甘い。
まゆみに伝えた不細工というのは嘘だ。他の女性にはどうかわからないひどい人だけれど、流されるように恋人関係を続けている私にとっては、どこか不器用な生き方しかできない優しい人だ。
食後に運ばれたガトーショコラには、生クリームとラズベリーソースが綺麗に飾りつけられていた。苦味のあるガトーショコラに優しい甘さの生クリームは、立花に似ている気がした。
……何を考えているんだろう。
お酒を飲んだのがまずかったのだろうか。いつもより飲みすぎたせいで、少し頭がぼうっとしている。足下はふらついてはいないけれど、ふわふわと気持ちがいい。
お会計は立花が払ってくれた。私が誘ったのだから、払うと言ったのに譲ってくれなかった。
お酒を飲んだから体温が上がり、夜風が気持ちがいい。自然と繋がれた手は温かくて、優しい掌に笑みが零れる。
「ねえ、立花」
同性に嫌われても仕方のない綺麗な顔の立花を見上げた。
離れた場所で見ているだけでも十分な彼は、やっぱりアイドルが似合ってそうだ。実際にアイドル扱いされ、騒がれていた学生時代。ファンクラブが怖かったな。
「私……」
土曜日に職場の後輩と出かけるの――伝えていない出来事。浮気のつもりがないお出かけを伝えたらどうなるんだろう。
浮気をする立花に正直に伝えるべきか。隠してもいいんじゃないか。だって、下心はない。立花は尋ねてこない。言い訳が脳内で駆け巡る。
「職場で何かあった?」
立花の少し冷たい声にびくっと身体が震えた。悪いことをして見つかった子供のようだ。
「理沙に怒っているわけじゃないよ。隠し事、無理に聞き出したいわけじゃない。ただ――」
立ち止まり、私を見つめる瞳が心配そうに揺れている。
「――俺の大切な恋人にとって、俺は頼りなくて甘えられないのかな? そう自分が情けないだけだよ」
立花を傷つけた?
無理に聞き出さないから、今までも隠し事をしていた。なのにどうしてか、隠そうとしている出来事を思うと罪悪感が襲ってくる。
甘い言葉を向けられるたびに、他の彼女さんにも言っているんだろうな。そう考えて、真剣に受け止めていなかった。
でも、今は他の彼女さんに同じことを言っているんだと思えない。向けられる瞳に、反論ができなくなる。
怖くて、傷つきたくない。ただそれだけの理由で、恋人からの言葉から逃げていたのだ。予防線を引かないと、私は――……。
私は?
あれ、何を考えていたんだっけ。ああ、そうだ。もういっそのこと、立花に隠さずに伝えよう。
酔ったせいで、ぼんやりするまま私は口を開く。立花の質問に答えることを忘れ、ただ自分のことを伝えようと思った。
「あのね、立花。私、土曜日に……」
言葉を続けようとした私の視界に、誰かの姿が映る。気になって視線を動かした先にいたのは、平凡な黒髪の男性。
雑踏の中にいても見逃してしまうような見た目だ。立花のように惹きつける力は、ぱっと見たところない。なのになぜか、私は彼をじっと見つめてしまう。
一目惚れ?
まさか、恋愛のドキドキはしていない。むしろ、ぞわぞわして、おかしなドキドキを感じる。恋愛ではなくて、どちらかというと恐怖によるドキドキに近い。
目が離せない。
視線をそらせない。
立花の手を振り払い、私は走り出した。あの人が誰か確認したくて、制止の声を無視して駆ける。声をかけるつもりはないけれど、誰なのか確かめたい。
もう少しで、その人の場所までたどり着ける。歩く男性との距離は縮まって――私は立ち止まった。
地面に足が縫いつけられたかのように、一歩も動けない。ちらりと見えた横顔に息が止まるかと思った。
平凡な黒髪、薄い唇、優しげな瞳。どこにでもいそうな見た目をした男性は、私にとって忘れられない人だった。
部活の先輩、初恋の人。
叶わなかった恋、告白もしなかった。
まだ少し引きずっているのかもしれない。
久しぶりに見た初恋の人に、頬に熱が集まった。淡く、苦い青春ともいえる時の恋は、まるで私の中にまだ燻っているようだ。
間違えるはすがないその人の姿に、嬉しさよりも何か別のものがふいに沸き上がる。唐突な感情は、何を示しているのだろう。
判断のつかない感情を理解する前に、先輩が振り返った。どうやら落としたハンカチを拾うようだ。
すうっと熱が引いていく。ひゅっと息を飲んだ。身体の平衡感覚がなくなって、地面が揺れる。
お酒のせい?
地面にぶつかる前に、後ろから抱きしめられる。すぐに立花だと気付いて力を抜いて見上げると、怖い目をしていた。
初めて見る表情に戸惑って、自分に向けられているわけでもないのに、怖くて視線を動かした。
再び先輩を見れば、ハンカチを拾い終わって歩き出している。その後ろ姿はすぐに見えなくなった。大きな掌が私の視界を遮っている。
まるで守るように、私を抱きしめる腕が頼もしかった。視界を塞ぐ暗闇が優しい色をしている。
心臓が痛い。
頭が割れるように痛い。
ぐらぐらと世界は揺れる。
ふつり、と私の意識は闇の中へ落下した。
近くに温かいものがある。近付いて、ほうっと息を吐いた。立花が泊まりに来なくなってから、違和感があった。でも、今は久しぶりにすごく落ち着く。
くすっと小さな笑い声が響いた。髪を優しく櫛いてくれる手が気持ちいい。覚めかけていた意識が眠くなってくる。
早く起きないと、今日も仕事だ。けど、なんだか起きたくないな。まゆみと会いたくない。
もぞもぞと体を動かして、仕事に行く気持ちを固めていく。まだ眠ったままでいたくても、時間は止まってくれない。諦めてゆるゆると瞳を開けば、私が起きる時にはよく姿を消している立花がいた。
なんでいるんだろう。昨日、何かあったけ? 食事の約束をして、守ってもらったけど、それ以外に何かあっただろうか。
「お、はよう……眠い」
「おはよう、理沙」
「んー、うん」
「平気?」
落ちてくる声の優しい問いかけ。
ずっと前にも同じように訊かれた。紫陽花の近くで泣いている私に、今と同じテンポと響きを持って尋ねてきたことがあった。
「うん」
私は平気、大丈夫。
何も心配されるようなことはないはずだ。立花には結局、宮部くんとのお出かけのことを伝えられなかった。
まゆみのことに関しては、相談することでもないかな。今までの面倒事もなんとかなったんだし、どう説明したらいいのかわからない。それに、立花のせいだ、と八つ当たりなんてしたくない。
「……なら、俺はもう行くよ」
「うん、いってらっしゃい」




