九
立花に看病されてから三日目。元気に仕事を続けているけれど、よく話しかけてくれていた宮部くんが瞳を細め、切なそうに私を見つめる。理由を聞いたら後戻りができない気がして、いつもと変わらない接し方を続けた。それ以外の器用な立ち回りを知らない。
仕事が早く終わった今日、嬉しい日だというのに私の口からは溜息が零れる。運勢が悪いんだ、と半ば諦めた瞳で呼び止めてきた相手を見つめ返した。
思い出せば、星座占いは真ん中くらいだった。ラッキーアイテムは麻婆豆腐、色は黄色。
占いなんて少しも信じていないけれど、今なら信じる。信じてラッキーアイテムの色を身につける。もちろん昼食は、会社から徒歩八分くらいの中華店で麻婆豆腐を食べるだろう。今の状況が望まない展開を引き起こすことを、経験からいやになるほどわかっている。
そういえば結局、立花は風邪を引かなかった。私に看病をしてもらえないことを残念そうにしていた彼の表情が浮かぶ。現実逃避だと自覚しつつ、私は叩かれた頬に軽く触れた。じんじんと痛みを訴える頬を無視して、私は目の前に女性を見つめる。
美しく派手な容姿。女性が羨む素敵なプロモーションは、どこかのモデルみたいだ。もしかしたら、実際にモデルをしている人かもしれない。服装は流行を取り入れた趣味のいいもので、同性の憧れと嫉妬を受けてしまうほどの綺麗な人。
そんな人物とは、友人でもなければ知り合いでもない。こうやって顔を見合わせることになった原因は、ありふれた理由からだ。今から始まるのは久しぶりの嫉妬による八つ当たりである。また叩かれたり、文句を言われたりするのかと考えるとげんなりしてくる。
立花、ちゃんと彼女さんの面倒見てよ。面倒事に関わらせないで欲しい。
つい遠い目をしてしまう。看病してくれた立花に向けていた感謝の気持ちが減っていく。ああ、感謝して立花の好物であるプリンを作ってあげたことが馬鹿みたいだ。
「あたしから優雅を盗るなんて信じらんないっ! 綺麗でも、頭がよさそうでもないくせに!」
グサッときた。
そんなに気にしてないけど、やっぱり他人に言われるとダメージがくる。
「あの日、約束をすっぽかされたのあんたのせいでしょ!」
はらはらと涙を流し、嫉妬に顔を歪めた表情が羨ましかった。
私にはそれほど必死になって食い止めるものがない。彼との関係は、向こうが切り出さないからずるずると続けているだけだ。もし、今まで見てきた女性と同じように別れを切り出されたら、私は必死にならずにあっさりと受け入れるだろう。
「あの日?」
「とぼけないで! 優雅があたしとの約束を破るなんて今までなかったのに……なのに、なんて言ったと思う?」
「…………」
知らないんですけど。考えたくもないし、それほど興味もないんですが。
なんて口にしたら、また頬を叩かれそうだ。立花が目の前にいる彼女に向けて何を言ったかなんて知らない。私がわざわざ彼に言わせたわけでもない。嘘じゃないけど、私の言葉を信じてくれないだろう。
「大切な彼女の側から離れられない」
告げられた言葉に、頭を抱えたくなった私は悪くない。私なら気にせず流す。
けれど、流せないタイプの女性にその台詞はない。うまく誤魔化したらいいのに、何を考えて伝えているんだろう。いくらでも、他の方法があるのになんでそんな相手の心を傷つける言葉を選択したのだろうか。悪化させるだけの台詞を口にした理由を知りたくなった。
「あたしが優雅の彼女なのよ。なのに、この台詞! 嬉しいでしょ、あたしから優雅を奪って」
私も自分が立花の恋人だと思っているけれど、ここまではっきり別の彼女に言い切るなんてすごいと感心してしまう。私だったら、自信を持って自分以外の彼女に立ち向かおうとしないだろう。自分と相手がきちんと恋人同士だと認識していたら満足だ。恋人の自慢もしなければ、わざわざ宣言なんてしない。
「奪う気なんてないですよ」
何も言わない方が得策だ。わかっているけど訂正したくなった。
奪う、と言われるようなことをしたことはない。いなくなったらいなくなったで放置する。それに、立花を賭けて勝負もしていない。彼を無理に捕まえようとしたところで、その努力は無駄なだけだ。無理に引き止めて、束縛したら立花との距離が開いていくだけなのにわからないのだろうか。
「なによそれ、そうよね。彼女だとずっと思っていたけど、ただの浮気相手としか思われていなかったあたし相手なら余裕よね」
睨みつけられ、私は小さく息を吐いた。
嫉妬の炎に焼かれている彼女には、私の言葉は届きそうにない。睨みつけてくる瞳の強さが気持ちの強さを物語っている。諦めきれていない様子に、可哀想だと心の中で呟いた。決して報われることなんてない想いは、ただ自分が辛くなるだけだ。
会話のキャッチボールができない。立花の浮気相手はよく決めつけてくる。過去にも存在した彼女さんと同じように、目の前にいる彼女さんも私が投げた会話を無視する傾向にあるようだ。
「あたしはあんたの存在なんて知らなかった」
それはそうだ。彼女がいるのに浮気相手がいるなんてわざわざ口にする馬鹿がいるだろうか。いないと思うが、どうなんだろう。
「あんたは浮気相手がいること知っていた? あんたが彼女として優雅を満足させられないから、あたしは優雅の彼女になったのよ。ねえ、少しは悔しい?」
私にはしっかり隠していないから、浮気していることは知っている。立花から直接「今、浮気しているんだ」なんて言われたことはないけど。
でも、それがどうしたというのだ。彼の今までの経歴や性質などを考えれば、おかしいと思うこともないし、浮気されることに悔しさなんてない。悪意を持った言葉を口にしながら、女性は自分自身を傷つけているように見える。ただ、目の前にいる彼女さんが哀れだった。悲しいなと思う。
「彼女さんがいることなら知っていましたよ」
応えてくれない人に恋をする。報われない相手を好きになる。傷つくだけの恋愛を知らず知らずの内にしてしまう。誰かを好きになるのなら仕方ないことなのかもしれない。面倒な現実やジレンマにがんじがらめにされ、学生時代と比べたら利己的な理由が増えていく。幸せだけに満たされた恋愛は、大人に近付けば近付くほど難しい。
だけど、立花の場合は仕方ないといえない。
甘い言葉に騙され、自分が浮気相手にされていると知らずにいる。相手を本気にさせるのに、隠し事をたくさんしているのだ。立花が浮気相手に隠し事をするようになったのはいつからなのか知らない。ただ、浮気相手だと自覚していたのに本気になる女性が面倒になった、とずっと前に聞いたことがある。
恋人がいることを前提に付き合うことを了承したはずが、本気になって迫ってくるようになる女性はしつこいらしい。だから、浮気相手だと伝えずに付き合うようになったみたいだ。知れば知るほど、女性の敵だと言われても仕方がない。
浮気なんてただ傷つくだけのもの。何かを手にしても、どこか悲しさがつきまとう。
そこを隠している立花は、ずるくて卑怯だ。相手が傷つくと知っているはずなのに、何度も繰り返すどうしようもない馬鹿で困った恋人だ。そんな彼をなんだかんだで受け入れてしまう私も、どうしようもない馬鹿な彼女なのだろう。




