あの頃のUFO学について
あの頃の僕は――といっても今もさほど変わりはないのだけれども――向学心といったものが欠片もなく試験のたびに赤点をとっていたのだけれど唯一熱心に励んでいたのがUFO学でした。
今でこそ東京や大阪などの都心で、野良猫や鴉たちがキャトルミューティレイションされ、葉巻型やアダムスキー型が空中で衝突事故を起こす風景を当たり前のように見かけようになっています。
けれども二十年前、僕らが学生だった頃は、まだ日本政府も表立った外交をようやく始めたところだったので、たまに明け方銀色の円盤をちらほらと見かける程度で、僕らにとってUFOは身近なものではなく未知の存在そのものでした(あのMUという学術雑誌が、昔はオカルト専門誌だったなんて信じられますか?)。
一般教育としてUFO学が取り入れられたのは高校二年生の頃でした。それまで書店のオカルトコーナーにあったはずのUFO関連の書籍がまとめて学習参考書の並びに移動したのをよく覚えています。
彼女による授業のほとんどは教室ではなく教室棟の屋上で行われました。
生徒たちは輪になって隣同士で手をつなぎ、馬鹿馬鹿しい呪文「ベントラ、ベントラ、スペースピープル」をつぶやき続けるのですが、今思い返すとはっきり言ってUFOも裸足で逃げ出すような不気味な光景です。
それはいわゆる「ベントラ」というやつで、UFOと会話できるといわれている交信術ですが、今なら学術的根拠がないただのインチキだと幼稚園児でも知っています。
ただあの頃はまだ学問としての体制が整っていませんでした。それ故、学校側もろくな教育者を用意することもできず、雇われた教師のほとんどが怪しげな「自称専門家」だったそうです。
当時僕らの副担任であった彼女――柊万里子もそんな一人でした。
ただ彼女は教師になりすまして職にありつこうとする他の山師たちと違い、誠意があり、熱意があったと思います。
いつだったかの同窓会で担任だった人が酔った勢いで、柊教諭は、子供の頃、蒸発した父がUFOによって誘拐されたのだと信じていたのだ、という話をしてくれました。
もしかしたら免許をもっていない彼女がUFO学の教師になった理由にはその辺りのことが関係しているのかもしれません。
あれは三年生最後の授業でした。
強く風の吹く寒い日だというのに僕らは疑いもせずに屋上で輪になっていました。たまたま隣になった彼女の手のひらが柔らかく、そして汗ばんでいたのを覚えています。
「ベントラ」が始まってすぐのこと、不意に空が光り輝きだし、気がつくといつの間にか手から彼女の感触が消えていました。
横を向くとその姿もありませんでした。
この件はちょっとした事件としてワイドショーなどでも取り上げられることになって、けれども学校側は始終「柊教諭は無免許教員であり。それが発覚する前に逃げたのだ」という説を曲げませんでした。
だから真実を知るのは僕らだけのようです。
今でも強く風の吹く寒い日にUFOを見かけると、時々思います。柊教諭は父に会えたのでしょうか。