2 秘密保持契約書(ひみつほじけいやくしょ)
一方、蓮水莉子は、よく知らない会計事務所から送られてきたe内容証明郵便に当惑していた。そもそも手紙の内容自体が、内容証明郵便にする必要があるものとは思えなかった。
一応、秘密保持契約書も同封されていたが、その内容はひどく抽象的で、公的に効力を持つものなのかどうかも疑わしかった。
手紙には、蓮水の取材に答える準備があるので、ぜひ取材旅行という形で同行してほしいこと、同行するなら一人で参加してほしいこと、海外に行くためパスポートを持参してほしいことなどが書かれていた。
しかし、何の取材なのか、どこへ行くのかは一切書かれておらず、日程だけが記されていた。
差出人の名前は有情主税。滅多にない姓であるため、先日N市民病院前で行った取材に関係していることは想像に難くなかった。
有情主税の名前をネットで検索すると、すぐにヒットした。れっきとした公認会計士であり、顔写真も掲載されている。北大阪の会計事務所の代表で、事務所名も封筒に書かれていた名称と一致していた。
手紙は内容証明で送られてきており、当然、郵便局には受け取った文書の謄本が残る。
旅行に同行したところで、自分の身に危険なことが起こるとは思えなかった。返信にも内容証明を使えば、記録は確実に残る。
海外に行くということなら、カメラマンを空港まで同行させればよい。旅行の参加者の写真も撮れるし、それだけでも自分の安全はある程度保証される。
そう考え、蓮水は旅行への参加に同意した。
雑誌社には、取材旅行となれば取材内容、行き先、日程を詳細に報告する必要がある。
しかし、蓮水はこの取材がどう転ぶかを見極めるまで編集部にも知らせないでおきたいと考え、有給休暇を申請することにした。
蓮水が同意すると、すぐ主税から連絡があった。当日は仕事ではないので軽装で構わないこと、日焼け止めを忘れないこと、都合の良い場所まで迎えに行くので場所を教えてほしいこと、念のためアメリカの簡易ビザを取得しておくことなど、ごく一般的な旅行と同じような瑣末な事項ばかりだった。
しかしこの時点で、蓮水はすでに一つのミスを犯していた。
蓮水は、有情という人物を、医師という立場を利用し、小遣い稼ぎ程度に有償で臓器移植を斡旋している人間――その程度にしか考えていなかったのである。
その認識が誤りではないかと気づいたのは、主税が約束の場所へ迎えに来て、大阪国際空港に到着した時だった。
蓮水は予定通り、カメラマンに主税の車を尾行させた。
ところが主税の車は、空港入り口からすぐの貨物ターミナルに入っていった。
主税の車は守衛に書類を提示すると、すぐターミナル内部へ通された。しかし通行証のないカメラマンの車は入構を許されなかった。
カメラマンは、せめて搭乗する飛行機だけでも撮影しようと、駐車場に車を停めた。
タクシー待合所の裏手に、貨物ターミナルを滑走路側から撮影できる場所がある。そこに陣取り、望遠レンズを構えた。
機体番号さえ分かれば、飛行経路を追跡できるソフトが公開されている。
蓮水たちは指定された場所に車を停め、ターミナルへ入った。
そこには、貨物機のパイロットや乗務員が手続きを行う簡素なカウンターがあり、そこで出国手続きが行われた。
空港のバンに乗せられ格納庫へ向かうと、そこには民間のビジネスジェットと、徽章を覆われた垂直離陸型輸送機が駐機していた。
蓮水は当然ビジネスジェットに搭乗するのだろうと思っていた。しかし軍服姿の外国人に案内され、輸送機の方へ向かうことになった。
機内に入る前に制服のような上着を羽織らされ、輸送機へ入る。
中にはすでに、有情、奈央と呼ばれていた看護師、見知らぬ女性、外国人兵士よりさらに体格の大きい男が乗っていた。
主税は真っ直ぐその女性の隣へ行き、腰を下ろした。
蓮水は三木に指示され、体格の大きい男の隣に座った。
男は体格に似合わず、優しそうで人懐こい顔をしていた。
沈黙を避けるため、蓮水は自己紹介をした。
男も名乗った。有情利太。
「有情さんも軍の方ですか?」
蓮水が聞いた。
「いえ、少し前まではそうでしたが、今は不動産関係の仕事をしています。ここにいる男は全員『有情』ですから、利太でいいですよ。向こうの若い方が弟の主税、もう一人が父の正成です」
「お父様と隣の看護師さんとは面識があります。N市民病院の前でお会いしました。とても仲の良さそうな話し方でしたが、いつもあんな感じなんですか?」
「父は女好きですからね。そういうことも多いと思います。もちろん相手は選んで言っているんでしょう」
「弟さんの隣にいる女性は?」
「あの人は諏訪加奈子さん。O地方検事局の検事です。弟の彼女ですよ」
「検事がこんな怪しげな飛行機に乗ってもいいんですか?」
「さっき出国手続きをしましたよね。ここはもう外国です。日本の司法は及びません」
「理論的にはそうなんでしょうけど……」
「本人がいいと言っているんだから仕方ありません」
利太は微笑んだ。
「ところで私たちはどこへ行くんですか?」
「きっちり聞いてはいませんが、たぶんF国でしょう」
「この飛行機で?」
「まさか。途中で乗り換えます」
「なぜそんな面倒なことを?」
利太は少し笑った。
「それは蓮水さんの方がよくご存知では?」
「どういう意味ですか?」
蓮水はとぼけた。
「全部言わせますか? 蓮水さん、自分の安全のために主税の車を尾行させたでしょう。でもターミナルまでは入れなかった。私たちはあそこに停まっているビジネスジェットを先に離陸させます。あなたのお連れの方は、私たちがその飛行機で移動したと思うでしょう。まさか後から離陸する軍用機に乗っているとは考えない」
「ビジネスジェットを撮影して、機体番号から行き先を調べるのは簡単です。あの機体は福岡空港に着陸して任務終了。その後どこへ行くかは次の顧客次第。私も知りません」
「私たちはこの貨物機でY県まで行き、そこから別の機体に乗り換えます。その飛行機でF国へ行く」
「見えないかもしれませんが、父も主税もかなり慎重な人間です。まあ、誰にも邪魔されたくないというのが本音でしょう」
利太の言う通り、ビジネスジェットが格納庫から出て行き、小型機用A滑走路から離陸した。
それに続き貨物機も同じ滑走路へ入り、同じ方向へ飛び立った。
有情たちを乗せた貨物機は、四十分ほどでY県の空港に着陸した。
着陸したのはU空港ではなく、I基地の滑走路だった。
そこで待機していた民間ビジネスジェットに乗り換える。
外国人兵士に見送られながら、ビジネスジェットはすぐ離陸し、南へ進路を変えた。




