9 違約の代償(いやくのだいしょう)
俵本誠一は大阪府北部の高級住宅街に住む資産家の三代目で、代替わりするごとに多くの相続税を払い自らの資産が目減りするのを嫌い、一念発起しうどん店を始めた。その「俵うどん」は店舗の多くは郊外型の大型店舗で味もよく、価格も適価であったために業績を伸ばし、フランチャイズ形式で販売店を広げ、今では関西一円で誰でも知っているほどの知名度を獲得し、ショッピングモールなどでも普通に見かけるうどん店になっていた。
しかし、半年ほど前から「俵うどん」の各店舗のすぐ近くに競合店が乱立し、経営が思わしくなかった。競合店はうどん店であったり、カフェであったり、パスタ店であったり、さまざまであったが、明らかに「俵うどん」を標的にした店舗であった。それらの店は明らかに儲けを度外視した外観や内装、そして価格は「俵うどん」とさほど変わらないにも関わらずより高級食材を使用し、俵本自身もいくつかの店に足を運んでみたが、納得の味であった。しかし、なぜその価格でその商品が提供できるのかは謎だった。
当然、客の減ったフランチャイズ・オーナーからの苦情の多く寄せられその対応にも難渋していた。競合店舗の経営母体をデータベースで検索してみたが、個人事業主であったり、中小企業であったりとまちまちで対応手段が見つからなかった。
そんなある日、俵本は須波という弁護士から一部の「俵うどん」の店舗を買収したいという内容の手紙を受け取った。
買収したいという店舗はいずれも直営店を含む、競合店のない店舗で、それらの店舗を売却するということは即ち「俵うどん」そのものが他所の会社の持ち物になることを意味した。買収の提示価格は人の足元を見るような価格ではなく、一般的にみても適正な価格ではあったが、自分が一代で築いてきた「俵うどん」に誇りを持っており、手放すつもりはなかった。
俵本はいうまでもなくこの敵対的な買収に対して徹底抗戦する構えでいた。また、この須波という弁護士が雨後の筍のように乱立した競合店について何か知っているのではないかと考え、顧問弁護士と相談し、一度は売却に応じるふりをして、その顧問弁護士を同席させることを条件に、会談に臨むことにした。
会談当日、俵本は顧問弁護士を連れ鼻息も荒く、須波の所属する弁護士事務所を訪れた。二人は広めの会議室に通された。会議室にはすでに弁護士の須波を含めて三人の男が待っていた。須波はラグビー選手のような体型をしており、隣に座る司法書士は兵士か格闘家を思わせる体型であった。少し離れた場所に座る公認会計士は引き締まってはいるものの中肉中背というところだった。三人は緊張して入室してきた俵本とは正反対の実に柔和な顔つきをしていた。
須波は「俵うどん」店舗買収に関して型通りの話をし、俵本が積極的に売却する意思があるのなら提示した価格で買い取るという旨を伝えた。
俵本が固辞する旨を伝えると須波は
「承知しました」
とあっさり引き下がった。
俵本は憤懣やりかたない様子でその場から立ち去ろうとすると
「お待ちください、俵本さん。お手持ちの資料に店舗買収に関する件等と書いてありますよね。私どもはもう一点、俵本さんとお話をしなければならないことがあります」
「なんでしょうか?」
俵本はぶっきらぼうに言った。
「こちらの弁護士がご同席しても構いませんか?」
「別に構いませんよ」
「わかりました。それではもう一度席についていただけますか」
俵本は不祥不承、先ほどの席に戻った。
「あなたは八年前に私たちと秘密保持契約を結びました。覚えておられますか?」
俵本はなんのことか全くわからないといった顔をした。
「これが秘密保持契約書の原本です」
須波は二行だけ書かれた俵本の署名入りの書類を俵本に提示した。
そこには
「見ざる、聞かざる、言わざる、が大切だと認識しています。」
と書かれていた。
それを見た俵本の表情が凍りついた。
須波は続けた。
「私どもとしても、見る、聞く、という二点に関しましてはどちらかといえば受動的なものなので、それに関して深く追求する意図はありません」
俵本はことの重大さに気付き、同席していた顧問弁護士に退席するように伝えた。顧問弁護士が退席すると須波が、続けてもよいか、と俵本に同意を求めた。
俵本が同意すると続きを話し始めた。
「見る、聞く、と行為と、言うという行為は根本的に異なります。言う、という行為は能動的なもので、あくまでも俵本さんが自らの意思を持って行うものであることはわかりますね。あなたはこの点において私たちと交わした秘密保持契約を反故にしたことになります。つきましてはお受け取りした二千四百万円と当時の物価と現在の物価を比較して概ね同等と考えられる三千万円を今ここでお渡しいたしますので、購入された商品の返却をお願いしたい。当然、その時に私たちが手にしたものは処分されていますので、ご希望であれば私たちが処分したものと同等の機能を有するものを交換させていただく用意があります。至極、公平な取引であると考えますが」
「ちょっと待ってください。私から移植された腎臓を取り出すというのですか?それは私に死ねということですか?」
「いえ、私たちは当時お売りした商品を返していただければそれだけで十分です。生命の去就に関しては私たちが関与することではありません」
「須波先生、それはいくらなんでも気の毒やないですか?」
司法書士が口を挟み、公認会計士が続けた。
「俵本さん、私たちとて鬼ではありません。俵本さんが相応の対価を用意していただけるなら私たちはそれでなかったことにしますよ」
「それなら先生がたが用意された三千万円をお支払いします。それで勘弁していただけますか?」
「俵本さん、それはあくまで私たちが提供した商品の価格です。私たちが申し上げているのは信頼関係を著しく損なったことに対する対価です。それをあなたがご自身の強い意志で私たちに提供していただけるのなら、涙を飲んで承服する意向です」
「俵うどんの店舗ではどうですか?」
「私たちにうどん店を経営する才覚はありません」
「一体どうすればよいのですか?」
「まず、確認させていただきます。あなたは誰にどのような形で八年前私どもから商品を購入したことを伝えましたか?」
「知り合いのカメラマンと雑誌記者とお酒を飲んでいるときに臓器移植を受けたと話しました」
「臓器移植?なんの話ですか?」
「いえ、商品を購入したと話しました。そのときにたまたま耳にした有情先生という名前も言ってしまったかもしれません」
「あなたはそのときに雑誌記者という仕事の特殊性を認識して話しましたか?」
「いいえ、カメラマンとは旧友同士なので、特に意識はせずに話しました」
「俵本さんは確かマンションをいくつかお持ちでしたよね」
「はい、持っています」
「そうですか。羨ましい限りです」
「それをよこせというのですか?」
「いえ、私は自分の感想を言っただけです。私たちから何かを要求することはありません。あなたが適当と思われる対価を提供していただければそれで十分です」
「わかりました」
「私たちの事業に賛同していただいて恐縮です。ご準備もあると思いますので、三日後にまたここでお会いしましょう。それとこれはあくまで私の推測に過ぎませんが、俵うどんの競合店はおそらく早い時期に撤退すると思いますよ。再会を楽しみにしています、俵本さん」




