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一期一会(いちごいちえ)・三木奈央

 男の務めるN病院とN市立病院は、お互いの病院の精神疾患患者と内科疾患患者の相互往診診察を行なっていた。往診診察に男が赴くことは滅多になかったが、その日は他の医師が忙しく、代診を頼まれた。精神疾患を持つ患者がどうしてももう少し内科療養する必要があったようで、内服の調整と不穏時の点滴の指示をして、早々に退散しようとしていた。


 近所で割と大きな交通事故があったようで、救急外来は忙しそうだった。間の悪いことは重なるもので、たまたま病院の割れた窓を修理していた作業員が、不注意から足場の上で転倒し、ガラスの破片で右上腕外側から前腕外側にかけてひどい裂傷を負った。外科系の医師は概ね交通事故の対応に追われており、作業員の傷の手当てをする医師や看護師が足りていなかった。緊急コールが鳴り、何人かの医師や看護師、スタッフが来たが、若い医師や看護師が多く、すぐに止血処置は試みていたものの、なかなかうまくいかなかった。


 仕方なく男は手近なところにある手袋を取り、右の腕を外転して腋の下あたりを両手で強く押さえた。出血量はかなり減り、処置がしやすくなった。男は同じ場所を近くの医師に圧迫するよう指示し、傷全体を確認して、損傷箇所をその医師に伝え、立ち去ろうとした。


 そのとき、とりわけ若い女性看護師が男に声をかけた。


「先生が縫合もしてください」


「はっ? 私が、ですか?」


 全員が注目した。


「私はここの医者ではありません。提携先の病院の医者です。それに、ほら。今からこの縫合をすると就業時間の五時半を過ぎてしまいます」


 男は時計を見せて言った。


「今ここにいる先生がたは、ほとんど内科系の先生で、こんなに大きな傷はあんまり経験がないはずです」


「えっと、三木さん、ですか」


 男は名札を見て言った。


「これは緊急事態ではありません。出血が多いのは橈骨動脈が傷ついているからだけです。私が止血しておきますから、事故の処置が終わってから外科系の先生に縫合してもらえばいいと思いますよ」


「あのぉ、できれば早く縫っていただければうれしいんですが」


 作業員が言った。


「ほら、患者さんもそう言ってます。私がサポートしますから」


 勝ち誇ったように三木が言った。


「わかりましたよ。やりますよ。どこですればいいんですか?」


「今、救急は一杯なので、手術室のベッドを確保します」


 三木はそう言ってどこかへ消えていった。


「先生、乗りかかった船ですから少しお付き合いください。そこを押さえたままストレッチャーを押してもらって、手術室まで私を連れて行ってください」


 術衣に着替え、手術室に入っていくと、三木は手術器具をほぼ出し終えていた。内容を確認すると、筋膜を縫合するための吸収糸や血管縫合用の細いナイロン糸、ルーペまで用意されていた。男は、作業員の傷を見ただけでどのような器具が必要なのかすぐに理解する三木の透察力に驚かされた。


 縫合が開始され、三木は、初め手術器具の呼び名が違うことで戸惑うことはあったものの、非常に手際よく機械渡しを行なった。そして冗談を言って笑わせながら処置しているにも拘らず、男が的確に仕事をこなしていくことと、その仕上がりが美しいことに感動した。


 そんなことがあって三週間ほど経ったある日、病院から原付バイクで帰ってくると、三木の住む寮の前に、その佇まいとはあまり似つかわしくない白い大きな車が停まっていることに気づいた。しかし、同じ寮には若い医師も住んでおり、時には実家の車に乗ってきたりすることもあって、さほど珍しいことでもなかったので、気にせずにバイクを停め、ヘルメットを座席の下に収めて入口に向かっていくと、運転席から降りてきた女性に声をかけられた。


「三木奈央さんですね。酒井瑠美と申します。二十日前の件でお話があります」


 院内で見たような顔ではあったが、はっきりとは思い出せなかった。


「お着替えが必要でしたらここでお待ちしております」


 酒井はそう言った。


「着替えは大丈夫ですから、荷物だけ置いてきてもいいですか?」


「どうぞ。お待ちしています」


 そう言われ、三木は自室まで行き扉を開けた。部屋に入り、警察に連絡しようかどうか迷ったが、院内で見たことのある女性であったことと、二十日前の処置は和やかに終わったことを考えて、荷物を置いてすぐに戻った。


「三木さん、助手席に乗ってください」


 そう言って酒井は後部座席に座った。


 運転手はいつの間にか男性に代わっていた。


「初めまして、有情主税です。今から後ろの酒井さんがいくつか質問をしますので、答えてもらえますか? それと夕食はまだですよね。嫌いな食べ物はありますか?」


「嫌いな食べ物はありません。質問に関しては内容によります」


 三木はそう答えた。


「気負わなくていいですよ。事実関係を確認するのと、私たちのお手伝いをしていただけないかと考えているだけです」


 三木は、てっきり先日の手術室での出来事に関して聞かれるのかと思い、


「患者さんのことはあまり具体的なことは話せませんけど、可能な範囲でお答えします」


 と答えた。


「答えは質問を聞いて判断していただいて構いませんよ。瑠美、始めてや」


 主税はそう言った。


「オッケー」


「それでは三木さん、始めますね」


「三木奈央さん。二千二年六月十四日、二人兄妹の長女として鳥取県境港市で出生。小、中、高は地元で卒業。高校卒業後は大阪近野看護大学看護学部に入学、そのまま卒業。成績は上の中くらい。看護師免許取得後は現職のN市民病院手術部に配属。ここまでは間違いないですか?」


 三木はいきなり自分の出自を聞かれ戸惑ったが、その通りであったので、


「間違いないです」


 と答えた。


 その後、家族構成や職業、交友関係など、微に入り細に入り聞かれ、しかも最初の質問と同様にイエス、ノーだけを答えるもので、どれも間違いなかったため、そうです、と答えるしかなかった。さらには奨学ローンの残高まで詳細に知られていた。


「奨学ローンは先日のお礼にこちらで完済しておきました」


 とまで言われた。


 三木はだんだん、この二人の申し入れを断ることができないのではないか、と思い始めていた。


 やがて三人を乗せた車は山沿いにある和食店に入って行った。車止めがあるので、かろうじてそこが客を迎える場所であることはわかったが、看板や案内は何もなかった。個室に案内されると、そこには先日の医師がいて声をかけてきた。


「こんばんは、三木さん。その二人は失礼なことを言ったり、したりしませんでしたか? それとお酒は飲まれますか?」


「いいえ、いろいろ質問はされましたが、失礼というようなことではありませんでした。今までの経歴とか、家族構成とか。お酒は好きです。私もいただいていいんですか?」


「もちろんです。ビールでいいですか? 質問には素直に答えてくれてたよ」


 酒井が三木と医師にそう言って、ビール三本を注文した。


「先生にはおかわりを持ってきますね」


 そう言って仲居は一旦下がっていった。


「それ自体、大概失礼なような気がせんでもないけどな。通過儀礼やと思って許して下さいね。ところで、三木さん。今の収入に満足してますか?」


「奨学ローンの支払いがあって、すごく困るというほどではないですけど、もう少しあれば嬉しいです」


「そうですか。私たちは他に医療関係の仕事をしていて、少しお手伝いいただければ嬉しいんですが」


「どうして私なんですか?」


「こないだの縫合処置を手伝ってもらって、心地よかったからです」


 ビールと先付が運ばれてきた。


「とりあえず乾杯しょうか」


 医師が音頭をとった。


「バイトという形で構いませんから、私たちと一緒に仕事をしませんか? 基本的には海外での仕事になりますけど、交通費や宿泊費は全部こちらで用意します」


「海外で何をすればいいんですか?」


「今と同じ機械出しの仕事ですよ」


「海外となると何日も外国に滞在するんですか? そうなると今の仕事に差し支えが出そうな気がしますが」


「そんなに頻繁にあるわけではありませんし、長期に滞在していただく必要はありません。平均したら三か月に二回くらい、三、四日といったところだと思います。予定がだいぶ前から決まっているので、急に行ってもらうようなことも滅多にありません」


「パスポートを持っていませんけど、大丈夫ですか?」


「パスポートは帰国時に必要なので、一応用意してもらわないといけませんが、面倒なビザなどはこちらで手配します」


「それなら大丈夫だと思いますけど、少し時間をくれませんか? 一応、公務員ですし、上司と相談しないといけないので」


「それには及びません。N市民病院の院長先生とは懇意にさせていただいていますので、もう了解はもらってあります」


 主税が言った。


「それならOKです」


「そうですか。嬉しい返事です。少し研修がありますので、それは主税が担当します」


 酒井が口を挟んだ。


「それとさっきもお伝えしたけど、奨学ローンはもう払わなくていいからね。寮やと何かと不便やろうから、住むとこと車も用意しといたから。お家の軽トラ乗ってるから、マニュアルは乗れるよね?」


「車は私の趣味で選びましたよ。気に入らなかったら、バイト代が入った後で好きなようにしていいですよ」


 三木は周到にお膳立てされた勧誘に、「バイトをする」というしかなかった。ただでさえ家族や交友関係まで知られている上に、二百万円以上も残っている奨学ローンの支払いまで済ませていると言われて、断る術はなかった。一体、この人たちは海外でどのような「医療関係」の仕事をしているのか甚だ心配ではあったが、出向ではあるものの同じ病院で働く医師と、同じく医療関係の仕事をしていると思われる女性、にこやかな好青年然とした公認会計士は、みな悪人には見えなかった。


 ごく簡単な秘密保持契約書にサインした後、四人は一切バイトの話をすることはなく、趣味の話など当たり障りのない会話をして食事を終えた。三木はそれなりに飲んで、それなりに酔っており、帰り際に渡された包みを菓子折りか何かと思って家に持ち帰った。翌日開けてみると、少しの和菓子と「引越し代」と記された袋が入っており、中には五百万円が入っていた。三木は、もしかしたら自分はとんでもないことに首を突っ込んでしまったのではないかという気がしてならなかった。


 会食の三日後の木曜日に、全く知らない電話番号から電話がかかってきた。


「三木さんですか? 私は有情と申しますが、竹見台のお家へのご案内と関連書類をお渡ししたいのですが、昼間に時間の取れる日はありますか?」


 相手は有情と言っていたが、先日会った有情主税とは違う声に思えた。


「主税さんではないですよね?」


「違いますよ。兄の利太です。不動産関係の仕事をしています」


「えっと、今週ですと土日ならどちらも大丈夫です」


「わかりました。土曜日に寮にお迎えにあがりますが、何時ごろがいいですか?」


「じゃあ、十時ごろにお願いします」


「それでは十時にお伺いします」


「よろしくお願いします」


 とは言ったものの、不安は募るばかりであった。


 土曜日の十時になると、すぐに携帯が鳴った。


「おはようございます、三木さん。下まで来ていますので、いつでも降りていらしていいですよ」


「あっ、すぐに降りますね」


 そう言って三木は寮の玄関まで降りて行った。


 これまた紺色の大きな車が停まっていて、中から背の高い男が降りてきて助手席の扉を開けた。助手席に乗り込むと男は、


「初めまして、有情利太です。今日は貴重な時間をいただきありがとうございます。これから竹見台までご案内しますね」


 と言った。


「どうも初めまして、三木奈央です。よろしくお願いします」


 三木は主税も男前だったが、この利太もまた男前だと思った。


「ところで利太さん、主税さんとはご兄弟とお聞きしましたが、他の二人、酒井さんとあの先生とはどのような関係なんですか?」


「あれ、誰も言ってませんでしたか。あの医師は私たちの父です。そして酒井さんは移植コーディネーターです。酒井さんとは血縁はありません。以前にちょっとした、いざこざがあって、それ以来の知り合いです」


 三木は利太なら何か話すのではないかと思い、話を続けた。


「利太さんも医療関係の仕事を海外でしてるんですか?」


「いや、私は直接関わってはいません。どちらかといえば警備面を担当しています」


「警備面というと具体的にはどんな?」


「その前に三木さんは秘密保持契約書にサインはしましたか?」


 と質問で返された。


 秘密保持契約書といっても、「見ざる、聞かざる、言わざる、が大切であると認識しています」と書かれていただけであったが、


「はい、先日、皆さんにお会いした時にサインしました」


 と答えた。


「私は狙撃手です」


 三木は一瞬耳を疑った。


「狙撃手……ですか? どんな時に狙撃するんですか?」


「ほぼ出番はありませんよ。誰かがヘマをして、相手が銃器を持っていた場合は撃ちます。ただ、相手方が確実に一人しかいない時はその銃器を撃ちます。これもまずないですが、相手も狙撃手がいるような場合は、その狙撃手をまず撃ちます。仕事が分担されてますので、これに三木さんが関わることはないですよ」


「私はどんな仕事をするんですか?」


「新しく手術の看護師さんをスカウトした、としか聞いてません」


「そうではなくて、全般的にはどんな仕事ですか?」


「一言で言えば臓器移植ですね。三木さんには脳死したドナーから臓器を取り出すお手伝いをしてもらうんだと思います」


「それだけですか?」


「多分それだけですよ。先ほどお伝えしましたが、業務が分担されてるんで、私も詳しくは知りません。移植自体は現地の提携先の病院に勤めてる医者がします」


 やがて二人を乗せた車は桃山台駅の手前で新御堂を出て左折し、一つ目の信号を右に曲がった。さらに二つ目の角を左に曲がり、もう一度左に曲がって住宅街に入り、すぐに止まった。


「手前の道に入ると車が通れなくなっていて遠回りしましたけど、歩いてなら桃山台まで十分程度で行けますよ」


 そう言って利太は緑の多い平屋の建物の前に降り立った。


「豪邸ではないですが、古くからの住宅地なので、あまり大きな家に若い女性が一人で住むと目立つと思いまして。一緒に来てください」


 とドアを開けて言った。


 中に入ってみると、建物自体は比較的小さなものだったが、庭が広く、百坪くらいはありそうだった。駐車場には古いミニが停めてあった。


「家具は合いそうなのを入れておきましたので、足りないものがあったらまた揃えてください」


 そう言って家の中を案内して回った。新しい家ではなかったが、非常によく手入れされており、幹線道路からも離れていて、近くに公園もあり、環境は良さそうだった。


「ここなら、もしお子さんができても大きくなるまで安心だと思いますよ」


「そんなに先のことまではわかりませんよ」


 三木は笑った。


「今後、お引越しをされるならいいところを探してきますので、いつでも言ってください。可能な限りご希望に添えるようにします」


「いえ、そんな、せっかく用意してくださったのに、すぐに引っ越しなんて考えていません。それにここも含めて、一軒家に住むともなれば家賃も高そうですし」


「ここの家賃ですか? ここの家賃は必要ないですよ」


「家賃まで出してもらえるんですか?」


「いいえ、家賃は出しません。この家は気に入りましたか?」


「はい、すごく素敵です」


「それでは、いくつかお渡しする書類がありますので、ダイニングのテーブルに行きましょうか」


「わかりました」


 家の中や庭、周囲の様子を一通り見て回って、二人はテーブルについた。利太は持ってきたクーラーボックスからお茶のペットボトルを出して、備え付けのグラスを使う旨を三木に告げた。


「まずはこの家の書類になります」


 利太はカバンの中から、権利書と書かれた書類を取り出した。


「名前と住所、まあ、住所はここになっていますけど、を確認してください」


 住所は知らない住所であったが、所有者が「三木 奈央」になっていた。境港の本籍まで記載されていた。


「この所有者が私というのはどういうことですか?」


「この家と土地は三木さんのものという意味です。後ろに土地と家屋の見取り図がついていますので、後で見ておいてください」


「これを私にくれるというのですか?」


「何か問題がありますか?」


「いや、問題はありません。驚いただけです。でも、海外の仕事を辞めれば返さないといけないんですよね?」


「秘密保持契約書にサインされたんですよね? なんて書いてありましたか?」


「見ざる、言わざる、聞かざる、が大切だと書いてありました」


「どうしても返したいとおっしゃるなら、それはそれで構いませんが、取っておいた方がいいと思いますよ。返されても受け取る名目がありませんし」


「わかりました」


「それとこれが駐車場に置いてあった車の車検証です。確認してもらえますか?」


「はい」


 車の所有者も三木になっており、ナンバーは一四〇六だった。


「お乗りになる前に任意保険だけはご自身で加入してください。それと、寮の斜め右向かいにある駐車場の八番を契約しておきましたので、必要な時は利用してください」


 三木はなぜ任意保険だけは自分で入れと言ったのかがよくわからなかったが、早々に保険に入って乗ってみようと思った。引越し費用もほとんど必要なさそうだったし、いくら高い引越し代を支払っても十分な額をもらっていた。それと同時に、「バイト」はどう足掻いても、もう断ることができないことを悟った。




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