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置き手紙

作者: 三井
掲載日:2026/01/17

 凛子、ああ、僕の愛しい凛子。こんなものでのお別れになることを許してください。僕はこれから死にます。死にに行くのです。

 僕は貴女を含め、二人の女性を愛しております。もう一人の名を多恵と言います。彼女とは幼い頃、家が隣同士でした。歳も僕の一つ下で、よく遊んでおりました。彼女は僕のことを康弘さんではなく、親しみを込めて兄さんと呼んでくれました。いつしか僕たちは惹かれ合い、交際するようになりました。そして僕が高等学校に入った頃、多恵に縁談の話が参りました。街で一番の問屋のご子息との縁談です。多恵のお家は決して貧乏ではありませんでしたが、お金には困っておりました。無理して多恵を学校に通わせていたのですから、当然お金は減る一方。ですので、このお話は勿論トントン拍子に進みました。ご両親に恩返しをしたいと日頃から言っていた多恵が、どうしてこれに反対出来ましょう。どうして僕が彼女を引き止められましょう。彼女は泣く泣くこの縁談を受け、晴れて問屋のご子息と結婚致しました。結婚式での彼女の晴れ姿は、それはそれは美しかった。白無垢に身を包み、旦那様と寄り添って歩いていくその後ろ姿。今でも夢に見て枕を涙で濡らす程でございます。彼女はその日、僕に言いました。「私はいつまでも兄さんを想っています。いつまでも」と。僕はその言葉を信じ、彼女の手を離しました。

そしてある日、多恵は僕の前から忽然と姿を消しました。置き手紙を残して。多恵のお母様から預かったその手紙を、そのままここに写します。

『兄さん、愛する兄さん。私はもう、行かねばなりません。私達の家の目の前に広がる、この真っ青な海の向こうに行くのです。旦那様がこの海の向こうでお勉強なさるのに、着いて行かねばならないのです。ああ寂しい。旦那様と水平線の更に向こう側に行くなんて、どれほど恐ろしいことかお分かりでしょうか。幼い頃、兄さんは私におっしゃいました。いつか必ず二人一緒に、あの先へ行こうと。ああ、私はその約束を果たす前に旦那様と一緒に海を渡るのです。兄さん、私はいつまでも貴方を想っております。今も、涙が溢れて止まりません。私は貴方と海を渡りたかった。貴方と新しい景色を見たかった。それはもう叶わぬのです。ええ、絶対に叶わぬ夢なのです。勿論私は旦那様を愛しております。心の奥底から尊敬しております。ですが兄さん、私はこの一生で兄さんほど愛した人はいないのです。たとえどれほどのお金持ちであろうとも、美男子であろうとも、兄さんに勝る方はいらっしゃらないのです。まだ私は貴方を愛しております。今後もずっと、貴方を愛しております。ですが兄さん、私は貴方を愛しているからこそ、貴方に幸せになってほしいのです。素敵な出会いをなさって、素敵な家庭を築いて、素敵な旅をなさってください。兄さんの幸せが私の幸せでございます。どうか、どうかお身体に気をつけて』

 僕は何度もこの置き手紙を読み、何度も泣きました。何日も何日も、泣き続けました。それほど僕にとって多恵は大切な存在だったのです。僕は多恵がいない寂しさを紛らわすため、学業に打ち込みました。そこで出会ったのが貴女、凛子です。当時、落ち込んでいた僕に何も聞かず、ただ寄り添ってくれた貴女なのです。まるで女神のようでした。勿論多恵を愛しておりましたが、それと同じくらい、僕は貴女に惹かれたのです。お恥ずかしい話ではあるのですが、貴女なら多恵と同じくらい愛せると思ったのです。実際、僕は貴女を大変愛しております。今も、貴女の美しい寝顔を見ながらこの手紙を書いております。ですが、僕はもう死ななければならない。

 先日の朝刊で、例の旦那様が亡くなったという記事を見かけました。虎狼痢ころりだったそうです。それと同じ頃、多恵からの手紙が僕の元に届きました。多恵の帰国を報せるものでございます。僕は急いで会いに行きました。貴女に何も伝えず家を飛び出した日、大変な心配をかけてしまって申し訳なかった。あの日、僕は多恵に会っていたのです。久方ぶりに見た多恵は見違えるほど変わっておりました。旦那様を亡くした心労からか頬は痩け、着回し続けた洋物の服はボロボロになっておりました。これがあの時と同じ多恵なのかと疑ってさえおりましたが、僕を見つけた時に見せた彼女の笑顔はあの時のままでした。ああ、兄さん、と駆け寄ってきた時の多恵の笑顔といったら!貴女と過ごすうちに幾らか薄れた恋心がまた、僕の心臓を燃えんばかりに熱くするのです。僕はその時、確かに二人の女性を愛していたのでございます。ああ、愛しい凛子よ。貴女は僕のこの愚かな告白を聞いて怒るか知らん。いっそ怒ってください。怨んでください。憎んでください。僕は貴女を裏切ったのです。お義父様やお義母様に誓った、あの言葉に背いたのです。僕は必ず貴女を幸せにすると誓ったのにも関わらず、その約束を果たせぬのです。勿論、家を出て多恵と繋がることもございません。僕は一人で死に行きます。憐れでしょう。僕は愛する人を幸せに出来ぬ。ええ、凛子も多恵も、幸せに出来ぬのです。

 僕と会った数日後、多恵は死にました。心労が祟ったのだそうです。彼女は今度こそ本当に僕の前から姿を消してしまいました。以前と違って、置き手紙もありませぬ。貴女に何も言わず、何日も塞ぎ込んでいたのはこの所為でございます。何も言わなかったのに、貴女は何も聞かず僕を支えてくれました。どれほど貴女を愛おしく思ったでしょう。感謝してもしきれませぬ。僕は確かに貴女を愛しております。もしかせずとも信じられないでしょうが、僕は心の奥底から、貴女を愛しているのです。凛子、僕は死ぬのです。死ななければならないのです。愛する人を失う哀しみを紛らわすにはこれしかないのです。貴女にも同じ想いをさせてしまうことをお許しください。もし、これを読み終えても尚、貴女が僕を愛していると言うのならば、貴女にお願いがあります。

 どうか、幸せになってください。僕が果たせなかったお義父様とお義母様との約束を、キチンと果たせる男を見つけてください。僕はこれから、貴女を不幸にします。ですから、貴女にはこれ以上ないほど幸せになってもらいたい。お金は十分用意しました。僕の書斎に大きな棚があるでしょう。その二段目に金庫が置いてあります。番号は貴女の誕生日です。我武者羅に働き、貴女の為に貯めたものです。それを使って旅行にでも行ってください。お友達と遊んでください。お義父様とお義母様にご馳走してさしあげてください。貴女が幸せだと思うことに使ってください。ああ、貴女と別れたくない。まだここに居たい。ただ貴女の寝顔を見つめていたい。ですが凛子、僕の心臓が痛むのです。多恵の亡霊が僕を抱き締めるのです。この苦しみから逃れるには、死ぬしかないのです。この死は、貴女と多恵、二人を同時に愛してしまった償いでもあります。こんなものでしか償えない僕をお許しください。僕はもう往きます。凛子、僕はあの世でも貴女を愛しています。どうかお元気で。



 凛子は泣いた。声も出さずに泣いた。近所で評判になるくらい愛した旦那は、自分以外に愛した女性がいたのである。

 書いてあった棚の金庫を開けると、これでもかというほどの大金が入っていた。凛子は笑った。心から愛した亭主の律儀さに。

 彼女は今、独りである。愛する旦那様を失い、あまつさえその男には自分以外の想い人がいた事実を知らされたのだ。どうして許すことが出来るだろう。

 今の凛子は、康弘が多恵の置き手紙を読んだ時の気持ちがよく分かる。康弘の置き手紙を握り締め、ボロボロと涙を零す凛子の背中は小さかった。

 しかし、これで康弘は恋の苦しみから救われたのである。これで幸せになったのだ。今頃あの世で多恵と二人、笑い合っているのであろう。

 凛子は金庫の中の大金を前にしてしわくちゃになった手紙を握り締め、泣きながら笑った。乾いた笑い声であった。


 翌日の朝刊には、康弘の地元の海から水死体が見つかったという記事が載っていた。紛れもなくそれは康弘の水死体であった。

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