第8話:美しきハニートラップ ~人事担当・彩華~
戦場において、正面突破だけが敵の策ではない。
時に甘い蜜を塗り、英雄を骨抜きにする「搦め手」こそが、最も警戒すべき罠となる。
中堅商社の選考会場。
グループ面接を終えた勇(司馬懿)たちのもとに、一人の女性が近づいてきた。
「彩華」。
入社3年目の若手人事。モデルのような長身に、華やかなブランドスーツ。その微笑みは、殺伐とした就活戦線に咲いた大輪の牡丹のようだった。
「司馬くん、だよね? 今日の面接、すっごく良かったよ」
甘い香水の香りが漂う。
背後で剛田と早川が「うおお、女神だ……」「連絡先交換してぇ」と鼻の下を伸ばしているのが気配でわかる。
「君みたいな優秀な学生、普通に選考を受けさせるのはもったいないな。……ねえ、今夜空いてる? 『特別ルート』の説明、したいんだけど」
彩華は上目遣いで勇の腕に触れた。
普通の男子学生なら、この時点で陥落(内定)だろう。
だが、勇の脳内では、最大級の警報が鳴り響いていた。
(……ほう。「連環の計」か)
かつて、暴君・董卓と最強の武人・呂布を仲違いさせるために送り込まれた美女・貂蝉。
彼女の笑顔は、男を破滅させる凶器だった。
この女の目も同じだ。勇を見ているようで、その奥にある「ノルマ」を見ている。
「光栄です。ぜひ、お供させてください」
勇はあえて、その罠に足を踏み入れた。
* * *
連れてこられたのは、西麻布の隠れ家的な高級フレンチ。
学生の身分では水一杯すら頼めないような店だ。
「さあ、遠慮しないで食べて。経費だから」
彩華は次々と高級料理とワインを注文する。
フォアグラ、トリュフ、キャビア。
勇は遠慮なく舌鼓を打ちながら、冷静に観察を続けた。
(餌が豪華であればあるほど、その中にある釣り針は太い)
メインディッシュの肉料理が終わった頃、彩華の表情が変わった。
鞄から一枚の書類を取り出す。
『内定承諾書』。
そして、朱肉とペン。
「司馬くん。ウチ、君のこと本当に買ってるの。だから、今ここでサインして? そしたら、他の会社の選考は全部辞退してくれるよね?」
声のトーンが一段低くなる。
笑顔だが、目は笑っていない。
これが噂に聞く「オワハラ(就活終われハラスメント)」。
高級料理で借しを作り、心理的な圧迫で他社への道を断つ、現代の軟禁策だ。
「……なるほど。これを書かねば、この店からは出られないと?」
「まさか。でも、書かないなら……私の顔、潰れちゃうな。せっかく上の人に掛け合ったのに」
彩華は涙ぐむ演技まで見せる。完璧だ。呂布奉先ならイチコロだろう。
だが、相手が悪かった。
勇はナプキンで口を拭うと、ペンを取らずにワイングラスを回した。
「彩華さん。貴女、焦っていますね?」
「え?」
「この時期に優秀層を囲い込めなければ、人事としての貴女の評価(KPI)に関わる。……違いますか?」
勇の鋭い指摘に、彩華の表情が凍りつく。
「私をここで強引に縛れば、私はサインするフリをして、後で内定を辞退することもできる。そうなれば、貴女は『見る目のない人事』として泥を塗られることになる」
「な、何が言いたいの……?」
「取引をしましょう。私はサインはしない。他社の選考も受ける」
「はあ!? ふざけないでよ、こんなに奢らせておいて!」
「ですが、『第一志望群』としてキープはしておきます。貴女は上司に『超優秀な学生をグリップ中』と報告できる。私が最終的に御社を選ぶ可能性もゼロではない。……私をここで敵に回して逃げられるより、よほど建設的ではありませんか?」
勇は不敵に笑い、デザートのメニューを開いた。
「もし私を逃せば、今夜のこの高い接待費、貴女はどう処理するつもりです? 『成果なし』では、始末書ものでしょう?」
彩華は絶句した。
完全に手玉に取られた。
この学生は、高級メシを食った上で、内定(保険)だけを確保し、さらに自由な就活を続けようとしているのだ。
しかも、自分の保身(経費の正当化)を人質にとって。
「……っ、この、悪魔……!」
「お褒めいただき光栄です。すみません、デザートにこの『季節のタルト』を」
悔しさに震える彩華を尻目に、勇は優雅にタルトを頬張った。
甘い蜜は、吸われる前に吸い尽くす。
それが、社畜軍師の流儀である。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.008:美人局と駆け引き
三国志において、美女・貂蝉の色香を使った「連環の計」は、董卓と呂布という二大巨頭を破滅させた。
現代の就活における「オワハラ接待」も構造は同じである。高級な食事や美女社員による優遇は、学生に「恩」という名の鎖をかけるための投資に過ぎない。
真の軍師であれば、その色香や美酒に溺れることなく、その背後にある相手の焦り(採用ノルマ)を見抜き、逆に利用して「タダ飯」を食らうくらいの図太さを持つべきである。




