第69話:五丈原の星、墜つる時
午前4時。ウェイソル本社、役員執務室。
空調の音が低く唸るだけの無機質な空間で、勇(司馬懿)はデスクに突っ伏していた。
ここ数週間、睡眠時間は1日2時間にも満たない。
Applexの攻撃への対応、株主への根回し、裏切り者の粛清、そしてアルゴリズム戦争。
若き肉体とはいえ、その負荷はとっくに限界を超えていた。
(……風が、吹いている)
夢を見ていた。
赤茶けた土埃。肌を刺すような秋風。
五丈原。
勇は、あの日の陣営に立っていた。
夜空を見上げると、巨大な「赤い妖星」が、尾を引いて落ちていく。
かつて、勇はこの星を見て、諸葛亮孔明の死を悟った。
だが、今日の星は違う。
その軌道は、真っ直ぐに勇の頭上へと向かっている。
(死ぬのは……私か?)
星が墜落し、世界が白光に包まれる。
その光の中で、白いスーツを着たモロクズ(孔明)が、悲しげに微笑んでいるのが見えた。
「……ッ!!」
勇は弾かれたように跳ね起きた。
心臓が早鐘を打ち、呼吸ができない。
喉の乾きを癒やそうと、手元にあった冷え切ったブラックコーヒーを煽る。
「ごほっ! げほっ、うぇっ……!」
気管に入った。
勇は激しく咳き込み、黒い液体を洗面台に吐き出した。
薄暗い照明の下、飛び散ったコーヒーが、どす黒い喀血のように見える。
「はぁ、はぁ……!」
勇は鏡を見た。
そこに映っていたのは、20代の若者の顔ではなかった。
皺だらけで、眼窩が落ち窪み、死相を漂わせた老人――前世の司馬懿仲達の亡霊が、鏡の向こうからこちらを睨みつけていた。
『仲達よ。……天命はここまでか?』
老いた自分が問いかける。
勇の手先は、アルコール中毒者のように震えていた。
極度の疲労とストレス。自律神経は崩壊寸前だ。
「過労死」という現代の死神が、鎌を首筋に掛けている。
「……黙れ」
勇は、鏡の老人に向かって低く唸った。
「私はまだ、天下を見ていない。……ここで死ねば、私はまた孔明に負けたことになる」
勇は、デスクの引き出しを開けた。
そこには、怪しげな黄金色の液体が入った小瓶が、七本並んでいた。
最強クラスのカフェインとタウリンを配合した、一本3000円の高級栄養ドリンク。
かつて五丈原で、孔明は寿命を延ばすために「七星燈」の儀式を行ったが、魏延に踏み消されて失敗した。
現代において、命の火を燃え立たせるのは、祈祷ではなく化学物質だ。
「……寿命の前借りだ」
勇は、震える手で小瓶の蓋を開け、一本、また一本と飲み干していく。
胃袋が焼けつくような熱さを感じる。
脳の血管が拡張し、強制的に覚醒物質が全身を駆け巡る。
3本目を飲み干した時、手の震えがピタリと止まった。
瞳孔が開き、視界が異常なほどクリアになる。
「……ふぅー」
勇は深く息を吐き、ネクタイを締め直した。
鏡の中の老人は消え、そこには冷徹な修羅の顔をした青年が立っていた。
「行くぞ。……最後の戦いだ」
勇はジャケットを翻し、執務室を出た。
その背中は、死地へと向かう将軍のそれだったが、その足取りは薬物の過剰摂取により、わずかに浮ついていた。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.069:天命と寿命
五丈原の戦いで、諸葛亮は自らの死期を悟り、北斗七星に祈りを捧げて寿命を延ばそうとした(七星燈の法)。しかし、その火は消え、彼は54歳で没した。
一方、司馬懿は73歳まで生き、その長寿こそが最終的な勝因となった。
現代ビジネスマンにとっての「七星燈」は、カフェインやエナジードリンクである。
これらは一時的にパフォーマンスを最大化させるが、それは寿命(健康)を前借りしているに過ぎない。
過労という死神は、孔明よりも手強い。
Warning: ユーザー(司馬勇)の心拍数140上昇。不整脈を検知。直ちに休息を推奨します。




