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第58話:恐妻・春香の「内助の功(物理)」

女子トイレの洗面台。

そこは、オフィスの裏情報が飛び交う魔窟である。


「ねぇ聞いた? 司馬専務、最近ソウくんに怒られてばっかりじゃん」

「ダサいよね~。昔は切れ者って噂だったけど、結局ただのオジサンじゃん」


鏡に向かって化粧を直しながら嘲笑しているのは、ソウに取り入って甘い汁を吸っている「ソウ親衛隊」の若手女子社員たちだ。

彼女たちの声は大きかった。

個室の一つが静かに開くまでは。


「へぇ……。いい度胸してんじゃん、あんたたち」


「え?」


彼女たちが振り返ると、そこには赤ちゃんを抱っこ紐で抱えた、ジャージ姿の女性が立っていた。

勇(司馬懿)の妻、春香はるかである。

同期入社であり、かつて勇と共にデスマーチを戦い抜いた元エンジニア。そして、北関東の暴走族を束ねていた元レディース総長だ。


現在は産休中のはずだが、その眼光は現役時代の鋭さを失っていない。


「あ、あなたは……?」

「司馬の嫁だよ。……ちょっと『ご挨拶』に来たんだけど、いいかな?」


春香はニッコリと笑った。だが、その目は笑っていない。

背中の赤ちゃんが「バブー」と声を上げるたび、彼女から立ち昇る「覇王色の覇気ママさんオーラ」が空間を歪ませる。


   *  *  *


数分後。開発フロア。

「みなさ~ん! お仕事お疲れ様です~!」


明るい声と共に、春香が大量のドーナツの箱を持って現れた。

「これ、差し入れです! うちのパパ……勇がお世話になってます~!」


「お、奥さん!?」

勇が驚いて立ち上がる。

「な、なぜここに……? 赤ちゃんまで連れて……」


「あら勇、顔色が悪いわよ? ちゃんとご飯食べてる?」


春香は勇のネクタイを直すふりをして、耳元でドスを利かせた声で囁いた。


「(……あんた、ナメられてんじゃないわよ。トイレで小娘どもが調子こいてたから、シメておいたわ)」


「(……ヒッ)」


勇が震え上がる中、春香の後ろから、先ほどの女子社員たちが現れた。

だが、その様子がおかしい。

彼女たちは直立不動で、春香に憧れの眼差しを向けているのだ。


「春香さん! このドーナツ、マジ美味しいっす!」

「さっきのアドバイス、感動しました! 私、一生ついていきます!」


先ほどまで勇を馬鹿にしていた彼女たちが、完全に「春香の手下(舎弟)」と化している。


(……何をしたんだ、春香)


勇は戦慄した。

春香はトイレでの数分間で、彼女たちの化粧のダメ出しをし、恋愛相談に乗り、そして「男を見る目がないと苦労するよ?」と凄みを利かせ、恐怖とカリスマ性で瞬時に心を掌握したのだ。


「あらあら、いい子たちじゃない。……ねぇ、これからもウチの勇のこと、支えてあげてね? ……できるわよね?」


春香が軽く彼女たちの肩に手を置く。

「ハイッ!! 姐さん!!」

彼女たちの返事は、軍隊のように揃っていた。


ソウ派閥の切り崩し。

それを、勇が手を下すまでもなく、妻が「ママ友ネットワーク」の要領で完了させてしまった。


   *  *  *


その夜。司馬家。

勇は正座させられていた。


「勇」


「は、はい」


春香は赤ちゃんにミルクをあげながら、冷ややかに言った。


「あんた、会社で『ボケたふり』してるんでしょ? 私にはわかるわよ」


「……さすがはお前だ。実は、ソウを油断させるために……」


「言い訳すんじゃないわよッ!!」


バシーン!!


春香の平手打ちが、勇の尻に炸裂した。


「い、痛い……!」


「演技だとしても、私の旦那がコケにされてんのはムカつくのよ! ナメられたら殺す、それがウチの家訓でしょ!?」


「は、はい……!」


「さっさとその『ソウ』とかいうガキ、地獄に落としてきなさい! これ以上私の顔に泥塗ったら、あんたの飯、一生抜きにするからね!」


「ぎょ、御意……!!」


勇は畳に額を擦り付けた。

かつて魏の皇帝ですら操った大軍師・司馬懿も、この「家庭内皇帝」には一生頭が上がらない。

最強の尻に敷かれた狼は、妻の恐怖をエネルギーに変え、反撃の狼煙を上げる決意を固めた。


---


【史実から学ぶビジネス兵法】


No.058:賢内助けんないじょ

司馬懿の正室・張春華ちょうしゅんかは、非常に気丈で有能な女性だった。

司馬懿が仮病を使って曹操の出仕を断っていた際、その姿を見た下女を、秘密を守るために自ら殺害したという逸話が残っている。

また、晩年の司馬懿が側室を寵愛した際、張春華がハンガーストライキ(絶食)を行うと、司馬懿は慌てて謝罪した。彼は後に「ババアが死ぬのはいいが、息子たちが可哀想だから謝っただけだ」と強がったが、実際は妻に頭が上がらなかった。

家庭内の序列は、時に天下の序列よりも重い。夫の危機を物理的・精神的に救う妻の存在は、最強のセーフティネットである。

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