第55話:IPO(上場)の鐘と、株価の乱高下
東京証券取引所、東証アローズ。
円形のガラス張りの会場に、多くのカメラと報道陣が詰めかけていた。
本日、株式会社ウェイソルは東証プライム市場への新規上場(IPO)を果たす。
「よし! 行くぞォ! 3、2、1……ウェイソル最高ォー!!」
カァァァン!! カァァァン!!
木槌を振り下ろし、上場の鐘を打ち鳴らしたのは、派手なブランドスーツに身を包んだ専務・曹ヶ谷ソウだった。
本来なら5回鳴らすのが通例だが、彼はテンションが上がりすぎて7回も叩き、係員に苦笑いされている。
「見たか司馬さん! 俺のバイブスが鐘に乗り移ったぜ!」
ソウが満面の笑みでカメラにピースサインを送る。
その斜め後ろ、本来なら社長が立つべき位置には、勇(司馬懿)が静かに佇んでいた。
彼は控えめな拍手を送りながら、内心で冷ややかに呟いた。
(……騒ぐな、小僧。鐘の音は、始まりの合図であると同時に、弔鐘にもなり得るのだ)
* * *
午前9時。取引開始。
電光掲示板に、ウェイソルの初値(最初につく株価)が表示される瞬間。
会場の空気が一瞬で凍りついた。
『公開価格:2,000円』
『初値:1,650円』
「……は?」
ソウの笑顔が引きつる。
「おい、なんだこれ? マイナスじゃん! どうなってんだよ!」
公募割れ。
市場の評価は残酷だった。
投資家たちは、カリスマ社長・曹ヶ谷タケルの病気療養と、その後に据えられたドラ息子・ソウの無能ぶりを、SNSや報道を通じて敏感に嗅ぎ取っていたのだ。
『ウェイソル、経営体制に不安』
『二代目がパリピすぎて売り』
ネット掲示板には、容赦ない売り注文の嵐が吹き荒れていた。
本社に戻ったソウは、社長室(仮)で暴れ回っていた。
「ふざけんな! 俺のデビュー戦だぞ!? 誰が売ってんだよ!」
ソウは勇の胸ぐらを掴んだ。
「おい司馬! お前CFO(財務責任者)も兼ねてるだろ!? なんとかしろ! 自社株買いでも何でもして株価を吊り上げろ!」
勇は、乱されたネクタイを直すこともせず、冷静に答えた。
「専務。上場直後の自社株買いは規制があります。それに、無理な買い支えは資金を枯渇させるだけです」
「じゃあどうすんだよ! このままじゃ俺がバカみたいじゃんか!」
「……今は、耐える時です」
勇は静かに言った。
「市場は気まぐれな生き物。一時的な下げに一喜一憂してはなりません。……むしろ、株価が下がれば、配当利回りが良くなり、長期的な投資家が入ってきやすくなります」
「うるせぇ! 俺は今すぐ『ストップ高』が見たいんだよ!」
ソウは壁に八つ当たりし、部屋を出て行った。
「クソッ、今日は飲みに行くぞ! ケンタ、店予約しろ!」
* * *
嵐が去った後の静寂の中。
勇は一人、モニターに表示された下落し続けるチャートを見つめていた。
「……フン。予想通りだ」
勇にとって、この暴落は計算通り、いや、むしろ好都合だった。
株価が下がるということは、企業の時価総額が下がるということ。
それは、「敵対的買収(TOB)」のリスクを高める諸刃の剣だが、同時に別の意味も持つ。
(株価が紙屑同然になれば……私が市場から買い戻し、この会社の支配権を握るコストも安く済む)
勇は、デスクの引き出しから、極秘裏に設立した資産管理会社の口座残高を確認した。
シリコンバレーで得た人脈と、株取引で増やした個人資産。
それを全て投入すれば、暴落したウェイソルの株を買い占めることは不可能ではない。
だが、問題が一つある。
勇は別のウィンドウを開いた。
そこには、海の向こうでウェイソル株を虎視眈々と狙う、あの「五丈原ファンド(モロクズ)」の動きがあった。
(安くなれば、奴らも買いに来る。……これはチキンレースだ)
株価をどこまで下げるか。
下げすぎればモロクズに食われる。
高すぎればソウが調子に乗る。
「……ギリギリまで引きつけよ」
勇はチャートの深淵を覗き込み、ニヤリと笑った。
「市場という戦場もまた、面白い」
上場の鐘は鳴った。
それは、会社という「城」の門がこじ開けられ、世界中の欲望がなだれ込んでくる、防衛戦の始まりの合図だった。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.055:株式市場という戦場
上場(IPO)とは、企業の所有権を証券という形で細分化し、市場にばら撒く行為である。
これにより巨額の資金を得られるが、同時に「株主」という名の無数の君主を持つことになる。
株価は企業の「戦闘力」であり、これが下がれば他国(競合やファンド)に安く領土を買い占められ、最悪の場合、経営権ごと乗っ取られる(敵対的買収)。
現代の軍師にとって、自社の株価コントロールは、城壁の修復と同じくらい重要な防衛任務である。




