第50話:嵐の前の静けさ ~社長の咳~
「来年4月。ウェイソルは東証プライムへ上場(IPO)する!」
社長・曹ヶ谷タケルの宣言に、役員会議室は熱気に包まれた。
時価総額予想は1000億円。
雑居ビルの地下から始まった小さなベンチャーは、ついに日本の表舞台に立とうとしていた。
「上場すれば資金調達力は桁違いになる。これでGAFAとも対等に……ごほっ! ごほっ!!」
突然、曹ヶ谷が激しく咳き込んだ。
単なる喉の不調ではない。肺の奥から絞り出すような、湿った咳。
彼はハンカチで口元を押さえ、苦痛に顔を歪めた。
「しゃ、社長? 大丈夫ですか?」
側近が水を差し出す。
「……ああ、すまん。最近、少し偏頭痛がしてな。……どこまで話したっけ?」
一瞬の沈黙。
曹ヶ谷の瞳から、いつもの覇気が消え、焦点が泳いでいた。
あの鋼鉄の記憶力を持つ男が、直前の文脈を見失っている。
(……ほう)
末席でその様子を見ていた勇(司馬懿)の眼鏡が、冷たく光った。
(顔色が土気色だ。指先が微かに震えている。そして今の記憶の欠落……。ただの風邪ではないな)
勇の脳裏に、前世の主君・曹操孟徳の最期が重なった。
大陸を制覇しながらも、慢性の頭痛に蝕まれ、志半ばで病に倒れた英雄。
現代の曹操もまた、会社という国が最大版図に達した瞬間に、肉体の限界を迎えようとしているのか。
会議後。
トイレの洗面台で、曹ヶ谷が一人、鏡を睨みつけていた。
勇が入っていくと、曹ヶ谷は慌ててハンカチを隠した。だが、その白い布に赤いシミが付着しているのを、勇は見逃さなかった。
「……お疲れのようですね、社長」
「司馬か。……フン、ただの過労だ。上場までは倒れるわけにはいかん」
曹ヶ谷は強がったが、その背中は以前よりも一回り小さく見えた。
(巨星、墜つるか)
勇は、曹ヶ谷の背中に向かって、音もなく一礼した。
それは労りではない。
「貴方の時代が終わる」という、冷徹な観測だった。
* * *
カリスマの動揺は、瞬く間に社内の空気を変えた。
これまで曹ヶ谷の独裁によって抑え込まれていた野心家たちが、蠢き始めたのだ。
「社長も還暦近いしな……次は誰が継ぐんだ?」
「順当にいけば、創業メンバーの夏侯専務か?」
「いや、最近実績を上げている司馬執行役員も侮れんぞ」
廊下の隅々で、次期政権を巡る囁き(陰口)が聞こえるようになった。
求心力の低下。派閥の形成。
会社が「成長」から「政治」のフェーズへと移行し始めた証拠だ。
勇の元にも、夏目部長や、外国人部隊のメンバーが擦り寄ってくるようになった。
「司馬さん、これからは貴方の時代ですよ」と。
勇は彼らを適当にあしらいつつ、自室のモニターで株価チャートを眺めた。
「愚かな。……内輪揉めをしている場合ではないというのに」
画面の向こう、海を隔てたアメリカ市場で、不穏な動きがあった。
Applexの子会社が設立した、謎の投資ファンド。
その名も――「Five Plains Fund(五丈原ファンド)」。
代表者は、ジェームズ・K・モロクズ。
そのファンドが、ウェイソルの株式を市場外で静かに買い集め始めている。
「五丈原……か」
勇は苦笑した。
あの孔明が、そんな皮肉な名前をつけるとは。
かつて自分が死んだ場所の名を冠し、今度はそこで司馬懿を葬るつもりなのだろう。
「曹操が倒れれば、魏は揺らぐ。そこを突いて、外から買収る気か」
勇は、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
雨が降り始めていた。
嵐が来る。
創業社長の死、後継者争い、そして敵対的買収。
全ての災厄が同時に襲いかかる、乱世の幕開けだ。
「面白い。……曹公が倒れた後、この国を支えるのが誰か、思い知らせてやろう」
勇の瞳に、忠臣の仮面の下から、簒奪者の炎がゆらりと灯った。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.050:巨星墜つ
建安25年、魏王・曹操が病死した。
絶対的なカリスマの死は、国家(組織)にとって最大のリスクであると同時に、野心を持つナンバー2にとっては、実権を握る千載一遇の好機となる。
カリスマが弱った時、組織のタガが外れ、内部では後継者争いが、外部からは敵の侵攻が同時に発生する。
この混乱期を制した者が、次の時代の覇者となる。
Warning: メインシナリオはこれより「忠義ルート」から「簒奪ルート」へと移行します。




