第46話:ブロンドの美女スパイ・ジェシカ
サンフランシスコの夜景を一望できる、会員制のスカイラウンジ。
勇(司馬懿)の目の前には、ハリウッド女優のような金髪の美女が座っていた。
ジェシカ。
Applexの幹部、ジェームズ・K・モロクズ(孔明)の秘書を名乗る女性だ。
「Cheers(乾杯)。……勇、あなたの活躍は聞いているわ」
ジェシカは濡れたような瞳で微笑み、シャンパングラスを傾けた。
その仕草一つ一つが、計算された芸術のように洗練されている。
「単刀直入に言うわ。ウェイソルなんて沈みゆく泥舟は降りて、Applexに来ない? 年収は今の10倍(約1億円)。それに、ストックオプションも用意するわ」
破格の条件。
普通のサラリーマンなら、即座に契約書にサインして靴を舐めるレベルだ。
だが、勇は無表情でミネラルウォーターを口にした。
(10倍の年収か。……甘い蜜には猛毒があるのが常だ)
勇の観察眼(狼顧の相)は、彼女の美貌の裏にある「仕掛け」を見逃していなかった。
まず、テーブルの下。
彼女のハンドバッグの留め具がわずかに光っている。高性能なボイスレコーダーだ。
ここで勇が「今の社長は無能だ」と一言でも漏らせば、その音声は即座に曹ヶ谷社長の元へ送られ、勇はウェイソルでの居場所を失うだろう。
そして、テーブルの上。
彼女は先ほどから、勇が口をつけたウォーターグラスを、ボーイに下げさせようとしない。
指紋、あるいは唾液からのDNA採取。
生体認証のハッキングに使われるリスクがある。
「……勇? 考えてくれている?」
ジェシカが身を乗り出し、甘い香水の香りが漂う。
勇は微笑んだ。
「魅力的な提案ですね。……ですが、今の会社には『恩』がありますから」
「恩? ビジネスにそんなもの、ナンセンスよ」
「ええ。ですが、一般的な論理として、プロジェクトの途中で船を降りるのは、私の美学に反するのですよ」
勇はのらりくらりと「一般論」だけを話し、言質を取らせない。
焦れたジェシカが、勇の手の甲に自らの手を重ねてきた。
「堅いのね。……でも、私はあなたのそういう所が欲しいの。ねえ、このグラスで乾杯しましょう?」
彼女が勇のグラスを持ち上げようとした、その瞬間。
ガシャンッ!!
勇の手が「滑り」、グラスが床に落ちて粉々に砕け散った。
「おっと。……失礼、手が滑ってしまいました」
「あっ……!」
ジェシカの顔が引きつる。
これで指紋もDNAも回収不能。さらに、店内の騒音で録音データにもノイズが入ったはずだ。
勇はナプキンで丁寧に手を拭きながら、冷ややかな声で囁いた。
「ジェシカさん。……モロクズ(孔明)に伝えてください」
「え?」
「『私は忠義の士ではないが、飼い主を変える時は自分で決める』と」
勇の瞳から、温厚なサラリーマンの仮面が消え、冷酷な策士の光が放たれた。
ジェシカは蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
「それと、もう一つ」
勇は立ち上がり際、彼女の耳元に口を寄せた。
「Applexでの待遇に不満ができたら、いつでも私に連絡を。……優秀な二重スパイ(ダブル・エージェント)には、今の2倍の報酬を払いましょう」
「……ッ!」
勇はチップをテーブルに投げ置き、颯爽とラウンジを去っていった。
残されたジェシカは、砕けたグラスの破片を見つめ、背筋に走る寒気に身を震わせた。
誘惑するはずが、逆に魂まで値踏みされたような屈辱。
この男、ただのエンジニアではない。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.046:離間の計
敵の陣営から好条件の引き抜き(ヘッドハンティング)があった際、手放しで喜んではならない。それは純粋な評価ではなく、現在の組織と個人の信頼関係を破壊し、内部崩壊を誘う「離間の計」である場合が多いからだ。
特に、録音やスキャンダルによって「戻れない状況」を作られるのは常套手段。
誘いには乗らず、かといって完全に敵対もせず、「逆に相手を利用してやる」という気概で交渉の主導権を握り返すのが、乱世の生存術である。




