第35話:兵糧攻め ~ピザとエナドリの補給線~
納品まであと1週間。
デスマーチ開発部は、完全なる戦場と化していた。
家に帰る時間は惜しい。全員が寝袋持参で泊まり込み、風呂はボディシート、食事はデスクで流し込む。
正気と狂気の境界線が曖昧になる、限界の領域。
そんな折、本部から無慈悲なメールが届いた。
『件名:経費削減のお知らせ』
『今期業績悪化に伴い、本日より全部署の「残業食事代」の支給を停止します』
「ふ、ふざけんなァァァッ!!」
剛田が飢えた獣のように咆哮した。
「残業代も出ねぇのに、唯一の楽しみだったタダ飯まで奪うのかよ! もう動けねぇ! 俺はここで餓死する!」
フロア全体から、キーボードを叩く音が消えた。
士気崩壊。
兵士たちは空腹と絶望で、モニターの前で放心している。
勇(司馬懿)は、静かに立ち上がった。
(愚かな。上層部は戦を知らん。長期の籠城戦において最も重要なのは、武器(PC)ではなく兵糧だ。飯を食わせぬ指揮官のために死ぬ兵士などいない)
勇は財布と伝票を掴み、経理部へと走った。
ターゲットは、以前「稟議書」の件で恩を売った(あるいは弱みを握った)、あの「鉄壁の老婆」こと経理課長だ。
「……というわけです。課長」
勇はカウンター越しに、鬼気迫る表情で訴えた。
「食費が出ません。このままでは開発部隊は全滅し、納期遅延による損害賠償は数千万円に及ぶでしょう」
「でもねぇ、司馬くん。規則は規則よ。食事代は出せないわ」
課長は頑として首を縦に振らない。
勇はニヤリと笑い、一枚の申請書を差し出した。
「誰が『食事』と言いましたか? 私が申請するのは『サーバー冷却用・固形燃料』および『生体CPU稼働用・潤滑液』です」
「……は?」
「我々は人間をやめ、システムの一部となります。よって、これは備品購入費(消耗品費)で処理できるはず。……違いますか?」
勇の目は笑っていない。
以前、彼女がトイレに行く隙に承認印を押させた時の「貸し」を、無言の圧力として突きつける。
課長は溜息をつき、眼鏡の位置を直した。
「……まったく、君は詭弁の天才ね。監査が入っても知らないわよ」
バンッ!
「備品購入」の承認印が押された。
* * *
1時間後。
死に絶えていた開発部に、天からの救済が到着した。
「うおおお! ピザだ! Lサイズだ! チーズ増量だァッ!」
勇が召喚したのは、大量の「高級デリバリーピザ」と、薬局で買い占めた一本2,000円の「高麗人参入り最強栄養ドリンク」。
炭水化物、脂質、そしてカフェイン。
暴力的なまでのカロリーの塊が、飢えた兵士たちの胃袋に投下される。
「食え! 飲め! 会社の金だ! 食った分だけコードを書け!」
「うめぇぇぇ! 勇、一生ついていくぜェェ!」
剛田がピザを折りたたんで一口で飲み込み、充血した目で再びキーボードに向かう。
血糖値の急上昇。
脳内麻薬がドバドバと分泌され、彼らは疲れを知らぬバーサーカーへと変貌した。
一方で、脂っこいものが喉を通らない玲奈先輩は、デスクでぐったりとしていた。
「……私、もう無理……吐きそう……」
勇は彼女の元へ歩み寄り、背中に隠していた小さな袋を差し出した。
それは、行列必至の有名パティスリーの「極上なめらかプリン」。
「玲奈先輩。貴女には別腹(特別手当)を用意しました」
「え……これ、私がずっと食べたかったやつ……」
「糖分は脳のガソリンです。……さあ、食べて、私に指示をください」
玲奈の瞳が潤む。
一口食べた瞬間、彼女の顔に生気が戻った。
胃袋を掴まれるとは、心を掴まれることと同義だ。
「……ありがとう、勇くん。よし、やるわよ! 朝まで回すわよ!」
「御意」
ピザの空き箱とエナドリの空き瓶が山のように積まれていく。
それはさながら、敵の首級の山のようだった。
勇は満足げに、狂乱の宴を指揮し続けた。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.035:兵は拙速を尊ぶ(兵糧編)
『孫子』には「兵は拙速を聞くも、未だ巧久を睹ざるなり(短期決戦が良いとは聞くが、長期戦で成功した例は知らない)」とある。
しかし、どうしても避けられない長期戦において、勝敗を分けるのは「兵糧」である。
官渡の戦いにおいて、曹操は烏巣にある袁紹軍の兵糧庫を焼き払うことで勝利を決定づけた。
現代のオフィスにおいても、空腹は最大の敵である。ジャンクフードによる血糖値スパイクは、健康を害する諸刃の剣だが、一時的に社員を死をも恐れぬ狂戦士へと変える、最強のドーピング戦術なのである。




