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第31話:伏魔殿(ふくまでん)! デスマーチ開発部

エレベーターが地下1階に到着し、重い扉が開く。

その瞬間、勇(司馬懿)の鼻を突いたのは、えたカップ麺の残り汁と、蒸発したカフェイン、そして洗われていない衣類が入り混じった、戦場の腐臭だった。


「次世代開発統括部・第4課」。

通称、デスマーチ開発部。

照明は薄暗く、床には寝袋が死体袋のように転がり、デスクの上には飲み干されたエナジードリンクの空き缶が摩天楼のように積み上げられている。

ここにあるのは「生活」ではない。「生存」のみだ。


「……なるほど。荒れているな」


勇はハンカチで口元を覆い、伏魔殿ふくまでんの奥へと進んだ。

フロアの最奥。

そこに、ひときわ巨大な「山」があった。


パーカーのフードを目深に被り、3つのモニターに囲まれた巨漢。

猪口いのぐち

社内最強の天才エンジニアにして、気に入らない上司を「コードが汚ねぇんだよ!」という理由で殴り飛ばし、この地下へ幽閉された狂犬。

三国志で言えば、曹操の親衛隊長として並ぶ者なき怪力を誇った「虎痴こち許褚きょちょ」の化身だ。


『ッターン! ドドドドッ……ッターン!!』


猪口がキーボードを叩く音は、まるで機関銃の掃射だった。

普通の人間なら近づくだけで威圧されるだろう。

だが、勇はその背後に立ち、静かに耳を澄ませた。


(……リズムが一定だ。迷いがない)


勇の解析能力が、打鍵音から彼の思考プロセスを読み解く。

(0か1か。白か黒か。……この男の思考回路には、政治的な妥協や曖昧さが一切ない。純粋なバイナリ(二進数)の塊だ)


勇は、おもむろに口を開いた。


「美しいな」


ピタリ。

猪口の手が止まった。

ゆっくりと巨体が振り返る。フードの奥から、充血した獣の目が勇を睨みつけた。


「……あァ? お前、誰だ。……殺すぞ」


「美しいコードだと言ったのだ。……無駄な変数が一つもない。まるで研ぎ澄まされた刃のようだ」


勇はモニターに表示されたソースコードを指差した。

お世辞ではない。それは芸術的なまでに最適化されたアルゴリズムだった。

猪口の殺気がわずかに緩む。自分のコードを理解する者が現れたからだ。


「……だろ? なのに、上の馬鹿どもは分からねぇんだ。『納期が』だの『仕様変更が』だの……俺のコードに泥を塗りやがる」


「ああ、嘆かわしいことだ。仕様書という名の『鎖』が、君という猛虎を繋ぎ止めている」


勇は一歩踏み出し、悪魔の契約を持ちかけた。


「猪口。私がその『鎖』を断ち切ってやろう」


「……なに?」


「面倒な会議、理不尽な仕様変更、無能な上司への報告。……それら全ての『政治』は、私が引き受ける。君はただ、誰にも邪魔されず、最強のコードを書くことだけに没頭しろ」


勇は不敵に笑い、手を差し出した。


「その代わり、君のその牙(技術)、私のために振るえ。……どうだ?」


猪口は勇を凝視した。

こいつは嘘をついていない。こいつは俺を「人間」扱いしていない。

俺を「武器」として最大限に活かそうとしている。

……その単純明快な論理ロジックこそが、猪口が求めていたものだった。


ガシィッ!!

猪口の巨大な手が、勇の手を握り潰さんばかりに握り返した。


「……いいぜ。俺の飼い主になれるもんなら、なってみろ。ただし、クソな仕様書を持ってきたら、テメェでも殴るぞ」


「安心しろ。私の辞書にバグはない」


その瞬間、勇は「デスマーチ開発部」という未開の荒野において、最初にして最強の武力を手に入れた。

猛獣使い・司馬懿の、地下帝国の建設が始まったのである。


---


【史実から学ぶビジネス兵法】


No.031:虎痴こち許褚きょちょ

曹操の親衛隊長・許褚は、「虎痴(虎のように強く、痴れ者のように純朴)」と呼ばれた。彼は政治や駆け引きを一切解さなかったが、主君・曹操を守るためなら、馬超のような英雄相手でも死を恐れず立ち向かった。

現代の開発現場における「天才エンジニア」もまた、同様の性質を持つ。

彼らは社会的なコミュニケーションや社内政治を嫌悪するが、技術的な「美しさ」や「論理」には絶対的な忠誠を誓う。

彼らを手懐けるのに、愛想笑いや飲み会は不要だ。「君の技術を理解し、邪魔なノイズ(雑務)を排除する」という一点を提示すれば、彼らはバグという敵を瞬殺する、最強の番犬となるのである。

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