第30話:試用期間終了、そして本当の地獄へ
7月1日。
季節は夏。ジメジメとした湿気が、サラリーマンのワイシャツを肌に張り付かせる季節。
勇(司馬懿)にとって、それは一つの区切りの日だった。
「試用期間終了」。
身分が不安定な「お試し採用」から、正式な「ウェイソルの社員(囚人)」として登録される日だ。
人事部長室。
冷房の効いた部屋で、荀部長は一枚の辞令を勇に手渡した。
「おめでとう、司馬くん。君の働きぶり、役員会でも評価されているわ。……特に、あの厄介な夏目部長を手懐けた手腕は、見事としか言いようがない」
「恐縮です。彼のような情熱的な上司に恵まれた幸運に過ぎません」
勇は表情一つ変えずに謙遜した。
荀は眼鏡の奥で目を細める。彼女には見えているのだろう。勇の謙遜という皮の下にある、底知れぬ野心が。
「で、本題なんだけど。……君には来月から、別の部署へ行ってもらうわ」
「異動、ですか?」
「『次世代開発統括部・第4課』。……通称、『デスマーチ開発部』よ」
荀の声のトーンが少し落ちた。
「そこは、ウェイソルの最暗部。離職率は脅威の80%。入社したエンジニアが次々と心を病み、あるいは失踪する、呪われた部署と言われているわ」
「ほう」
「君のような優秀な人材を送るのは心が痛むけれど……今のあの部署は無法地帯よ。誰かが整理(掃除)しなければ、会社全体のシステムが崩壊しかねない。……やってくれるかしら?」
それは命令であり、同時に「お前の器を試してやる」という挑戦状でもあった。
普通の社員なら、左遷同然の扱いに抗議するか、絶望して辞表を書くだろう。
だが、勇は口元を歪めた。
その目に宿っていたのは、恐怖ではなく、獲物を見つけた猛獣の光だった。
「謹んでお受けします」
「……怖くないの?」
「荒れた土地ほど、耕しがいがあるものです。……更地にしてしまえば、そこには私の好きな作物を植えられますから」
勇の脳裏には、かつて魏の国力を飛躍的に高めた政策「屯田制」が浮かんでいた。
戦乱で荒れ果てた土地に兵士を送り込み、農耕を行わせて兵糧を確保する。
離職率80%のブラック部署? 上等だ。
そこはつまり、既存のルールが崩壊した無法地帯。
私が新たな法を敷き、私自身の「私兵団」を作り上げるには、絶好の未開拓地ではないか。
「行って参ります、荀部長。……豊かな収穫を期待していてください」
勇は一礼し、部屋を出た。
その背中は、すでに一介の新人社員のものではなく、遠征に向かう将軍のそれだった。
* * *
同時刻。
ウェイソル本社ビル、地下サーバー室。
無数のLEDが明滅する静寂の空間で、一台のサーバーが唸りを上げていた。
画面に流れているのは、勇が入社以来、毎日提出していた「業務日報」のデータ。
表向きは無味乾燥な報告書だが、その行間には、社内の人間関係、弱点、市場の動向、そして「世界を変えるための戦略」が、高度な暗号として埋め込まれていた。
『Analysing... User: Sima_Yi...』
『Intelligence: S+ / Ambition: SSS / Danger: ERROR』
謎のAIプログラムが、勇の行動ログを学習し、自己進化を続けている。
勇さえもまだ知らない。
彼が利用していると思っていたITシステムそのものが、彼を観察し、あるいは彼に「何か」を期待していることに。
モニターの隅で、カーソルがひとりでに点滅した。
それはまるで、来るべき乱世の幕開けを告げる、脈動のようだった。
(第1部・新人社畜編 完)
(第2部・社内開拓編へ続く)
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.030:屯田制の開始
魏の武帝・曹操が実施し、司馬懿らが推進した国家戦略。
戦乱で荒廃し、所有者のいなくなった農地に流民や兵士を入植させ、組織的に開墾させる制度。これにより魏は圧倒的な「兵糧(経済力)」を確保し、三国最強の国力を築き上げた。
ビジネスにおいても、誰もが嫌がる「荒れた部署(不採算部門や炎上プロジェクト)」への配属は、ピンチではなくチャンスである。そこには既得権益がなく、成果を出せば全て自分の手柄となり、独自の王国を築くことができるからだ。これより始まるのは、単なる労働ではない。来るべきGAFAとの最終戦争に備えた、国力増強のフェーズである。




