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第26話:稟議書という名の長城

「……愚かな」


勇(司馬懿)は、手元のA4用紙を見つめ、深いため息をついた。

彼が起案したのは、業務効率化のための有料チャットツールの導入申請。

月額わずか500円。

このツールを使えば、チームの連絡コストは劇的に下がり、残業時間は月10時間は削減できる。


だが、その申請書――『稟議書りんぎしょ』の上部には、異常な数の「承認印欄」が並んでいた。


直属上長、課長、部長、本部長、経理担当、経理課長、コンプラ担当、法務部長、担当役員、決裁権者……。

その数、計12枠。


「たかが500円の決裁を得るのに、これら高給取りたちの『検討時間(人件費)』を合計すれば、優に10万円は超えるぞ。豆を煮るのに、最高級のシルクを薪にして燃やすようなものだ」


隣で剛田が絶望した顔をしている。

「無理だよ勇。ウチの稟議は『スタンプラリー』って呼ばれててさ、一つでもハンコが欠けたら差し戻しだ。特に経理の『鉄壁の老婆』は、てにをは(文法)の間違い一つで却下してくるって噂だぞ……」


「フン。正面から攻めるから弾かれるのだ」


勇は、稟議書と朱肉を手に立ち上がった。


「城壁がいかに高くとも、門番が眠っていれば意味はない。……これより『早駆け(はやがけ)の計』を実行する」


勇は社内のタイムスケジュールと、キーマンたちのバイオリズムを完全に掌握していた。


【第一関門:猪口課長】

時刻は13時10分。

昼食にカツ丼大盛りを食べた直後。血糖値が急上昇し、強烈な眠気に襲われている時間帯。

勇は、舟を漕いでいる猪口のデスクに音もなく忍び寄った。


「課長、例の件、承認お願いします(小声)」

「んあ……? ああ、うん……(ウトウト)」

猪口は内容も見ずに、反射的にハンコを押した。

<突破>


【第二関門:夏目部長】

時刻は14時55分。

15時から重要なクライアントへの訪問を控えており、気が急いている時間帯。

勇はエレベーターホールで待ち伏せした。


「部長! いってらっしゃいませ! ついでにこれ、事務的な更新手続きですのでハンコを!」

「おお司馬か! すまん今急いでる! ええい、貸せ!」

バンッ!

夏目は歩きながら力強く押印し、そのままエレベーターに消えた。

<突破>


【最終関門:経理の「鉄壁の老婆」】

最大の難所。彼女は書類の不備を見つけることに至上の喜びを感じる、稟議書の番人だ。

正面突破は不可能。

だが、勇は知っていた。彼女が毎日15時30分に、こだわりのハーブティーを飲み、その15分後に必ずトイレに立つことを。


15時45分。トイレ前の廊下。

個室から出てきた彼女は、生理的な解放感と、自律神経の緩和により、一瞬だけ「仏の顔」になる。

そこが、唯一の死角エアポケットだ。


「お疲れ様です、〇〇さん。……ああ、そういえば例の『経費削減』の件、こちらで進めてよろしいですね?」


勇は「ツール導入」ではなく「削減」という言葉を強調して書類を差し出した。

(残業代が減るのだから、嘘ではない)

リラックス状態の彼女は、条件反射的に「削減」という言葉に反応した。


「あら、削減? いいわね、進めなさい」

ポン。

鮮やかな朱印が押された。

<完全攻略>


席に戻った勇は、12個全てのハンコが埋まった稟議書を剛田に見せた。

所要時間、わずか45分。

通常なら2週間かかるスタンプラリーを、神速で完走したのだ。


「す、すげぇ……! 魔法かよ!?」


「魔法ではない。人の生理(トイレと眠気)を読んだだけだ」


勇は、完成した稟議書を総務へ投げ入れた。

堅牢に見える長城も、守る人間が隙だらけであれば、ただの土壁に過ぎない。


---


【史実から学ぶビジネス兵法】


No.026:万里の長城

秦の始皇帝が築いた万里の長城は、異民族の侵入を防ぐための最強の防壁であった。しかし、それは同時に内部の流通や交流を阻害し、維持管理に莫大なコストを強いるものでもあった。

現代の大企業における複雑怪奇な「承認フロー(稟議)」も同様である。不正を防ぐという名目で築かれたハンコの壁は、社員のやる気とスピード感を削ぐ最大の障害物となっている。

だが、壁を壊すのは難しい。賢い者は壁を壊さず、門番が居眠りしている隙に、こっそりと通り抜けるのである。

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