第2話:赤兎馬よりも速く、山手線は巡る
面接会場という名の戦場を後にした勇(司馬懿)は、路地裏で一つ息をついた。
懐から取り出したのは、薄いガラスと金属の板――スマートフォンだ。
(この身体の記憶によれば、これは「スマホ」。天下のあらゆる事象を映し出す、神の板か)
勇は慣れない手つきで画面を操作する。
指先一つで、遠方の天気から株価、地球の裏側のニュースまでが瞬時に表示される。かつて斥候を放ち、何日もかけて集めた情報が、ここでは瞬きする間に手に入るのだ。
(恐ろしい時代だ。だが、構造は乱世と変わらぬ)
勇は、この世界を支配する巨大な影の存在に気づき始めていた。
知の回廊を独占し、検索エンジンという名の諜報網を敷く「Giga-Link」。
天下の物流を握り、あらゆる物資を兵糧として各家庭へ送り込む「Amazone」。
そして、人々の繋がりを管理する「Facemask」と、魅惑の果実で民を洗脳する「Applex」。
これら四大帝国「GAFA」こそが、現代の魏・呉・蜀。いや、その規模はかつての大国を遥かに凌駕している。
(劉備や孫権など、彼らに比べれば山賊の親玉に過ぎん。……面白い。この巨大な竜の背に乗らずして、何が軍師か)
勇は不敵に笑うと、次なる戦場――帰宅ラッシュの駅へと向かった。
そこには、異様な光景が広がっていた。
改札口という関所を抜ける、数万、数十万の群衆。
彼らは皆、死んだような目をしながらも、一糸乱れぬ隊列でホームへと行軍していく。暴動も起きず、略奪も起きない。ただ黙々と、自らを運ぶための列を作っている。
(なんと……。これほどの兵が、指揮官もなしに整然と動くとは。現代の規律は、軍法よりも厳しいのか?)
そこへ、雷鳴のような音と共に、鋼鉄の巨獣――山手線が滑り込んできた。
扉が開いた瞬間、無言の圧力と共に押し合いが始まる。
「チッ、敵襲か!」
勇の背後から、中年サラリーマンのタックルが迫る。
だが、勇は動じない。
五丈原の陣中で鍛え抜かれた(わけではないが、精神的には熟練の)状況判断能力が発動する。
(人の波には逆らうな。流れる水のように、力の空白地帯を見極めろ)
勇は身体の力を抜き、押し寄せる圧力を受け流した。
「満員電車陣形・柔」。
周囲が悲鳴を上げながら押し潰されていく中、勇は最小限の足運びで、吊り革の前という「安地」を確保していた。
窓の外を流れる東京の夜景。その速度は、名馬・赤兎馬ですら裸足で逃げ出すほどだ。
(速い。そして狭い。だが、この鉄の箱こそが、現代の兵員輸送車か)
揺れる車内で、勇は涼しい顔でスマホを見つめ続けた。
* * *
帰宅後。
勇の城(築30年、1Kのボロアパート)にて、軍師の夜は続く。
コンビニで買った兵糧を齧りながら、勇は就職情報サイトを巡回していた。
大国GAFAへの士官は、今の勇の「平凡なスペック」では難しい。ならば、小国から成り上がり、やがて大国を喰らうしかない。
その時、一つのWebニュースが目に留まった。
『急成長中のブラック……いや、情熱的ベンチャー「ウェイ・ソリューションズ」。既存の商習慣を破壊する、覇道の経営とは?』
「ウェイ(Wei)……魏、か?」
奇妙な縁を感じ、勇はその記事をクリックした。
画面に表示されたのは、社長へのインタビュー記事。そして、腕組みをしてカメラを睨みつける男の写真。
その男を見た瞬間、勇の背筋に稲妻が走った。
冷酷さを隠そうともしない細い目。
世界を嘲笑うかのような薄い唇。
そして何より、写真越しですら伝わってくる、圧倒的な「覇気」。
「……バカな」
勇の手から、おにぎりが転がり落ちた。
忘れるはずがない。かつて仕え、恐れ、そして憧れた、あの絶対君主の顔を。
「曹公……!? まさか貴方も、この時代に?」
写真の男――ウェイ・ソリューションズ社長、曹ヶ谷タケル。
その目は、まるで画面の向こうの勇を見透かし、「来い、仲達。また馬車馬のように働かせてやる」と語りかけているようだった。
勇は震える手で、その企業のエントリーボタンを押した。
泥舟に乗るつもりはなかった。だが、あの男がいるのなら話は別だ。
それは、社畜としての地獄の始まりであり、覇道への第一歩だった。
---
【史実から学ぶビジネス兵法】
No.002:兵站
「腹が減っては戦ができぬ」の言葉通り、古来より戦争の勝敗を決するのは前線部隊の武力ではなく、後方からの補給能力(兵站)であった。
諸葛亮孔明は「木牛流馬」と呼ばれる輸送機を発明し、険しい山道での物資輸送を可能にしたとされる。現代においてその役割を果たすのが、鉄道網をはじめとする交通インフラだ。
毎朝、正確無比なダイヤグラムに従い、数百万の労働者(兵力)を疲弊させることなく(あるいは疲弊させつつ)オフィスという前線へ送り込むシステム。これこそが、現代経済を支える最強の兵站術と言えるだろう。




