第19話:手柄泥棒と空の弁当箱
組織において、部下の成果は上司のもの。上司のミスは部下の責任。
それがジャパニーズ・サラリーマン社会の理不尽な掟だ。
「司馬くん、昨日の企画書だけどさ。僕の方で『ブラッシュアップ』して提出しておいたよ」
朝礼後。直属の上司である猪口課長が、ニヤニヤしながら告げた。
「ブラッシュアップ」とは名ばかり。実際は、表紙の作成者名を「猪口」に書き換えただけの丸パクリだ。
猪口は典型的な「手柄泥棒」で、これまでも数々の部下のアイデアを自分の実績として報告し、出世してきた男だ。
「……そうですか。ありがとうございます」
勇(司馬懿)は無表情で頭を下げた。
傍らで聞いていた剛田が、猪口が去った瞬間に机を叩く。
「ふざけんなよあの野郎! 勇が徹夜で作った企画だぞ!? なんで黙ってるんだ!」
「騒ぐな、剛田」
勇はコーヒーを啜りながら、口元だけで笑った。
「奪われることなど想定内だ。……だから、毒を仕込んでおいた」
「毒……?」
「あの企画書には、致命的な論理矛盾をあえて残してある。自分の中身で作った資料なら気づくだろうが、上辺だけ盗んだ奴には気づけない種類の欠陥だ」
勇は会議室の方角を見やった。
そこでは今まさに、猪口課長による、曹ヶ谷社長へのプレゼンが始まろうとしていた。
* * *
大会議室。
張り詰めた空気の中、猪口課長は得意満面でスライドをめくっていた。
「――というわけで、この新規プラットフォーム事業は、初年度で黒字化が見込めます!」
流暢なプレゼン。資料の完成度は高い。
だが、最奥の席に座る曹ヶ谷タケルは、資料をパラパラとめくっただけで、一度も顔を上げなかった。
「……猪口」
「は、はい!」
「この35ページの収益モデル。ユーザー数が10万人を超えた時点で、サーバーコストが指数関数的に跳ね上がる計算になるが……ここはどう解消するつもりだ?」
曹ヶ谷の鋭い指摘。
それは、勇があえて記載を省き、隠しておいた「落とし穴」だった。
自分で考えた企画なら即座に「あ、それは別紙のプランBで~」と答えられるはずだ。
だが、中身を理解せずにパクっただけの猪口は、言葉に詰まった。
「え、あ、それは……その……コストは、スケールメリットで吸収できるというか……」
しどろもどろになる猪口。
額から脂汗が噴き出す。
曹ヶ谷は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、ゴミを見るように冷たい。
「吸収できる根拠は?」
「えっと……」
「何も考えていないのか? それとも、部下が作った資料を読まずに持ってきただけか?」
図星を突かれ、猪口は石のように固まった。
曹ヶ谷は手元の資料を閉じ、机の上に放り投げた。
バサリ、と乾いた音が響く。
「ガワだけ立派で、中身がない」
曹ヶ谷は吐き捨てるように言った。
「まるで、空の弁当箱だな」
その一言は、死刑宣告よりも重く響いた。
「空の弁当箱(器)」――それはかつて、曹操が参謀・荀彧に送りつけ、「お前はもう用済みだ」と暗に自殺を促したとされる最悪のメッセージ。
「さ、再考してまいります……ッ!」
猪口は逃げるように会議室を後にした。その背中は、社会的な死を悟った敗残兵そのものだった。
* * *
数時間後。
青ざめた顔で席に戻った猪口に対し、勇はスッと一枚のディスクを差し出した。
「課長。先ほどの企画書の『修正版(プランB)』、ご指示通り作成しておきました」
「え……?」
「『サーバーコストの問題を解決した完全版』です。……これを社長に出せば、まだ挽回できるかと」
それは、勇が最初から用意していた「真の企画書」だ。
猪口は藁にもすがる思いでひったくった。「そ、そうか! 早く出せ!」
再び社長室へ向かう猪口。だが、今度は「部下の司馬が修正案を作りました」と報告せざるを得ない。
結果、猪口の無能さと、勇の優秀さが同時に証明されることになる。
「手柄を盗ませ、失態を演じさせ、最後に恩を売って実利を取る」
勇は、空になった自分の弁当箱を片付けながら呟いた。
中身のない器を持つ者は、飢えて死ぬのみである。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.019:荀彧と空の器
曹操の覇業を支えた王佐の才・荀彧。しかし晩年、曹操との確執から、彼のもとには曹操から「空の器(弁当箱)」が送られてきた。中身が入っていない=「お前にはもう食わせる飯(禄)はない」、すなわち「死ね」という無言の圧力であったとされる。
現代ビジネスにおいても、中身(根拠や数字)のない報告書を提出することは、上司からの信頼を完全に失墜させ、その後のキャリアにおける「社会的な死」を招く自爆行為である。他人の成果を盗用する者は、その器の中身が空であることに気づかないまま、破滅の食卓につくことになる。




