表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/61

第18話:玲奈先輩の涙と、深夜のオフィス

午前2時。

草木も眠る丑三つ時だが、ウェイソルのオフィスは青白いLEDの光に満たされていた。

サーバーの排熱音だけが、耳鳴りのように響く。


「……う、うぅ……」


静寂を破ったのは、すすり泣く声だった。

残業していた勇(司馬懿)がふと顔を上げると、少し離れた席で、プロジェクトマネージャーの玲奈れなが机に突っ伏していた。


彼女が担当している案件は、ここ数日「炎上」していた。

クライアントの無茶な仕様変更、部下の逃亡、そして上司からの責任転嫁。

29歳の華奢な肩には、あまりに重すぎる荷物だ。


勇はキーボードを打つ手を止め、彼女の背中を見つめた。


(……好機だ)


勇の脳内コンピュータが冷徹に弾き出した答えは「慰め」ではない。「収奪」だ。

現在のプロジェクトの状況を覆すには、一般社員の権限では足りない。

PMである彼女が持つ「管理者権限アドミニストレータパスワード」が必要なのだ。

心が折れた今なら、その鍵を容易く奪える。


勇はコンビニ袋を提げ、彼女のデスクへと歩み寄った。


「玲奈先輩」


「……ッ!?」


玲奈がビクッと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。

充血した目。崩れたメイク。プライドの高い彼女が、最も見られたくない姿だろう。


「ご、ごめん……私、ちょっと寝てて……」

「嘘をつかなくていいです。誰もいませんよ」


勇は隣の椅子を引き寄せ、ドカッと座った。

そして、温めたばかりのコンビニ弁当(のり弁)を二つ、デスクに広げた。


「腹が減っては、泣くこともできません。食べましょう」


「……喉を通らないわよ」

「命令です。上司命令ならぬ、後輩命令です」


勇が強引に箸を握らせると、玲奈は観念したように白身魚のフライを口に運んだ。

一口、二口。

咀嚼するうちに、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……もう、無理かな」


玲奈がポツリと漏らす。


「毎日終電で帰って、土日も電話が鳴って。彼氏にも振られたし、肌もボロボロ。……私、何のために生きてるんだろう。明日、辞表出そうかな」


それは、完全なる敗北宣言だった。

勇は本来なら、ここで「なら、最後にパスワードだけ教えてください」と切り出し、彼女を介錯するつもりだった。


だが。

震える手で弁当を食べる彼女の横顔を見た瞬間、勇の胸の奥で、予期せぬノイズが走った。


(なんだ、この感覚は……?)


前世の自分は、敵も味方も、時には妻さえも駒として扱った。

だが、この孤独な深夜のオフィスで、同じ泥飯を食らう彼女に対し、奇妙な「情」のようなものが込み上げてくるのを止められなかった。

それは恋愛感情ではない。

同じ地獄(ブラック企業)を這いずり回る戦友への、共感だったのかもしれない。


勇は、静かに口を開いた。


「辞めるのは許可しません」


「え……?」


「辞めるなら、勝ってから辞めてください。このまま逃げ出せば、貴女は一生『負け犬』の記憶に苛まれる」


勇の声に熱がこもる。


「あの無能な部長に、全ての責任を押し付けられて終わるつもりですか? クライアントの言いなりになったまま、貴女の努力をドブに捨てるのですか?」


「だ、だって……私にはもう、どうすることも……」


「私がいます」


勇は玲奈の目を真っ直ぐに見据えた。


「私が支えます。貴女の泥は私が被るし、貴女の敵は私が刺す。……ですから」


勇は手を差し出した。


「その『管理者パスワード』を使って、反撃しましょう。仕様変更を無効化し、部長の承認ログを改ざんしてでも、プロジェクトを正常な軌道に戻すのです」


それは悪魔の囁きであり、同時に救いの手でもあった。

玲奈は涙を拭い、勇を見た。

その瞳に、消えかけていた闘志の火が灯る。


「……勇くんって、生意気な後輩だね」


「よく言われます」


玲奈はキーボードを引き寄せると、震える指でパスワードを打ち込んだ。

『Access Granted(アクセス承認)』。

画面に表示された緑色の文字が、二人の共犯関係の成立を告げていた。


「やるわよ。このままじゃ終われない」


「御意」


勇はニヤリと笑い、自らのPCをネットワークに接続した。

人形パペットにするつもりだった彼女は今、自らの意思で共に戦う「共犯者」へと変わった。

計算外のエラー。だが、悪くないエラーだ。


深夜のオフィスに、二人の激しいタイピング音が響き始めた。


---


【史実から学ぶビジネス兵法】


No.018:哀兵必勝あいへいひっしょう

『老子』にある言葉。「悲しみを背負い、追い詰められた兵士は、死に物狂いで戦うため勝利する」という意味。

理不尽な業務で心が折れかけた社員は、扱いを間違えれば退職(逃亡)してしまう。しかし、その悲しみに寄り添い、怒りの矛先を「敵(理不尽な上司や会社)」へと向けるよう誘導すれば、彼らは爆発的なエネルギーを発揮する「復讐の鬼」へと変貌する。

深夜のオフィスで共有する弁当と愚痴は、最強の決起集会なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ