第18話:玲奈先輩の涙と、深夜のオフィス
午前2時。
草木も眠る丑三つ時だが、ウェイソルのオフィスは青白いLEDの光に満たされていた。
サーバーの排熱音だけが、耳鳴りのように響く。
「……う、うぅ……」
静寂を破ったのは、すすり泣く声だった。
残業していた勇(司馬懿)がふと顔を上げると、少し離れた席で、プロジェクトマネージャーの玲奈が机に突っ伏していた。
彼女が担当している案件は、ここ数日「炎上」していた。
クライアントの無茶な仕様変更、部下の逃亡、そして上司からの責任転嫁。
29歳の華奢な肩には、あまりに重すぎる荷物だ。
勇はキーボードを打つ手を止め、彼女の背中を見つめた。
(……好機だ)
勇の脳内コンピュータが冷徹に弾き出した答えは「慰め」ではない。「収奪」だ。
現在のプロジェクトの状況を覆すには、一般社員の権限では足りない。
PMである彼女が持つ「管理者権限パスワード」が必要なのだ。
心が折れた今なら、その鍵を容易く奪える。
勇はコンビニ袋を提げ、彼女のデスクへと歩み寄った。
「玲奈先輩」
「……ッ!?」
玲奈がビクッと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。
充血した目。崩れたメイク。プライドの高い彼女が、最も見られたくない姿だろう。
「ご、ごめん……私、ちょっと寝てて……」
「嘘をつかなくていいです。誰もいませんよ」
勇は隣の椅子を引き寄せ、ドカッと座った。
そして、温めたばかりのコンビニ弁当(のり弁)を二つ、デスクに広げた。
「腹が減っては、泣くこともできません。食べましょう」
「……喉を通らないわよ」
「命令です。上司命令ならぬ、後輩命令です」
勇が強引に箸を握らせると、玲奈は観念したように白身魚のフライを口に運んだ。
一口、二口。
咀嚼するうちに、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……もう、無理かな」
玲奈がポツリと漏らす。
「毎日終電で帰って、土日も電話が鳴って。彼氏にも振られたし、肌もボロボロ。……私、何のために生きてるんだろう。明日、辞表出そうかな」
それは、完全なる敗北宣言だった。
勇は本来なら、ここで「なら、最後にパスワードだけ教えてください」と切り出し、彼女を介錯するつもりだった。
だが。
震える手で弁当を食べる彼女の横顔を見た瞬間、勇の胸の奥で、予期せぬノイズが走った。
(なんだ、この感覚は……?)
前世の自分は、敵も味方も、時には妻さえも駒として扱った。
だが、この孤独な深夜のオフィスで、同じ泥飯を食らう彼女に対し、奇妙な「情」のようなものが込み上げてくるのを止められなかった。
それは恋愛感情ではない。
同じ地獄(ブラック企業)を這いずり回る戦友への、共感だったのかもしれない。
勇は、静かに口を開いた。
「辞めるのは許可しません」
「え……?」
「辞めるなら、勝ってから辞めてください。このまま逃げ出せば、貴女は一生『負け犬』の記憶に苛まれる」
勇の声に熱がこもる。
「あの無能な部長に、全ての責任を押し付けられて終わるつもりですか? クライアントの言いなりになったまま、貴女の努力をドブに捨てるのですか?」
「だ、だって……私にはもう、どうすることも……」
「私がいます」
勇は玲奈の目を真っ直ぐに見据えた。
「私が支えます。貴女の泥は私が被るし、貴女の敵は私が刺す。……ですから」
勇は手を差し出した。
「その『管理者パスワード』を使って、反撃しましょう。仕様変更を無効化し、部長の承認ログを改ざんしてでも、プロジェクトを正常な軌道に戻すのです」
それは悪魔の囁きであり、同時に救いの手でもあった。
玲奈は涙を拭い、勇を見た。
その瞳に、消えかけていた闘志の火が灯る。
「……勇くんって、生意気な後輩だね」
「よく言われます」
玲奈はキーボードを引き寄せると、震える指でパスワードを打ち込んだ。
『Access Granted(アクセス承認)』。
画面に表示された緑色の文字が、二人の共犯関係の成立を告げていた。
「やるわよ。このままじゃ終われない」
「御意」
勇はニヤリと笑い、自らのPCをネットワークに接続した。
人形にするつもりだった彼女は今、自らの意思で共に戦う「共犯者」へと変わった。
計算外のエラー。だが、悪くないエラーだ。
深夜のオフィスに、二人の激しいタイピング音が響き始めた。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.018:哀兵必勝
『老子』にある言葉。「悲しみを背負い、追い詰められた兵士は、死に物狂いで戦うため勝利する」という意味。
理不尽な業務で心が折れかけた社員は、扱いを間違えれば退職(逃亡)してしまう。しかし、その悲しみに寄り添い、怒りの矛先を「敵(理不尽な上司や会社)」へと向けるよう誘導すれば、彼らは爆発的なエネルギーを発揮する「復讐の鬼」へと変貌する。
深夜のオフィスで共有する弁当と愚痴は、最強の決起集会なのだ。




