第16話:Excelマクロの隠蔽工作
「君たち、今日中にこの顧客アンケート1万件、全部Excelに入力しておいてくれ」
上司の無慈悲な命令は、いつも突然降ってくる。
ドン、とデスクに積まれたのは、紙の束と、整理されていないPDFデータの山。
単純計算でも、一件あたり30秒かかったとして……83時間。
今日中に終わらせるには、時空を歪めるしかない。
「む、無理だぁ……! 指がもげる!」
剛田が絶望のあまり机に突っ伏す。
だが、勇(司馬懿)は、積まれた資料の山を冷ややかに見つめていた。
(フン、愚かな。この程度の単純作業を人力でやらせるとは。我が軍の指揮官は、兵士を牛馬か何かと勘違いしているのか?)
勇は周囲を確認した。上司は自席でゴルフ雑誌を読んでいる。
勇は音もなくショートカットキーを叩いた。
「剛田、騒ぐな。見ていろ」
勇が起動したのは、Excelの裏側に潜む開発者ツール「VBA」。
複合機のOCR(文字認識)機能で紙データをテキスト化し、それを整形してセルに流し込むマクロ(自動化プログラム)を、勇はわずか10分で組み上げた。
「実行(Enter)」
カカカカカッ……!
画面上でカーソルが残像となり、目にも止まらぬ速さで空欄が埋まっていく。
1時間かかるはずの作業が、わずか数秒で消化されていく様は、まさにデジタルな兵糧輸送だ。
「す、すげぇ! 終わった! まだ11時だぞ!?」
剛田が歓声を上げる。
「勇、お前天才かよ! すぐ部長に報告して褒めてもらおうぜ!」
剛田が席を立とうとした瞬間、勇はその腕をガシリと掴んだ。
「馬鹿者。座れ」
「えっ?」
「貴様は楊修を知らんのか?」
「誰だよそれ」
「かつて曹操様の謎掛けを即座に解き、その才気をひけらかしすぎたがゆえに、疎まれて処刑された男だ」
勇は、完了したExcelファイルをあえて最小化した。
「いいか、剛田。組織において『仕事が速い奴』は評価されない。『あいつは暇だ』と思われ、さらに膨大な仕事を押し付けられるだけだ」
「な、なるほど……!」
「我々の目的は、定時に帰ること。そして『困難な任務をやり遂げた』という演出で評価を稼ぐことだ。……よって、これより『養晦の計』を実行する」
「よ、ようかい?」
「爪を隠し、時を待つということだ」
それからの時間は、ある意味で地獄よりも過酷な「演技」の時間だった。
勇と剛田は、眉間に皺を寄せ、必死にキーボードを叩くフリを続けた。
だが、勇の画面に表示されているのは、Excelの背後に隠したブラウザゲーム「ソリティア」だ。
剛田には、画面の端でこっそり動画を見させた。
上司が通りかかる気配を察知した瞬間、
「Alt + Tab」
神速のショートカットキーで画面を切り替え、「うーん、このデータは厄介ですね……」と独り言を呟く。
そして、17時55分。定時5分前。
勇は髪をわざとかき乱し、ネクタイを緩め、疲労困憊した顔を作った。
「ぶ、部長……。例の件、なんとか終わらせました……」
勇は、ふらつく足取りで報告に向かった。
部長が目を丸くする。
「えっ、あの量をもうやったの? 君たち、凄い根性だなぁ! さすがウェイソルの戦士だ!」
「いえ……会社のためですので……(ガクッ)」
「おお、無理するな! 今日はもう上がっていいぞ!」
「ありがとうございます……」
オフィスを出た瞬間、勇の背筋がシャキッと伸びた。
「お疲れ様でしたァ!」
剛田も満面の笑みでガッツポーズをする。
「見たか、剛田。これが『成果』と『評価』を両立させ、かつ体力も温存する最適解だ」
「一生ついていくわ、軍師殿!」
夜の街へ消えていく二人。
能ある鷹は爪を隠す。そして、社畜ある司馬懿は暇を隠すのである。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.016:養晦の計
「韜光養晦」とは、自らの才能を隠し、外敵に警戒されないよう時を待つ策略のこと。
三国志において、才能をひけらかしすぎた楊修は、曹操にその才を危険視され処刑された(鶏肋の逸話)。
現代のオフィスにおいても、業務効率化ツールやAIを駆使して仕事を瞬殺することは容易いが、それを正直に報告することは下策である。「仕事が速い=もっと働ける」と見なされ、給料は変わらぬまま業務量だけが増える「報酬なき労働」のループに陥るからだ。無能を装うこともまた、立派な生存戦略である。




