第11話:内定式の誓いと、血判状という名のNDA
10月1日。内定式。
それは通常、高級ホテルの宴会場でシャンパンを傾け、未来への希望を語り合う晴れやかな式典であるはずだ。
だが、ウェイ・ソリューションズの内定式は違った。
通されたのは、本社ビルの地下にある、窓のない大会議室。
照明は薄暗く、空調の低い唸り音だけが響いている。
そこに集められた内定者50名は、これから処刑される囚人のように怯えていた。
「ようこそ、修羅の国へ」
演壇に立ったのは、以前の説明会でも遭遇した人事部長・荀だ。
彼女は冷ややかな美貌で新兵たちを見下ろし、厳かに宣言した。
「君たちは、今日から学生ではない。ウェイソルという軍団の『戦士』だ。戦士に必要なのは権利ではない。義務と忠誠だ」
荀が指を鳴らすと、黒服の社員たちが分厚い封筒を配り始めた。
中から出てきたのは、辞書のように分厚い書類の束。
『秘密保持契約書(NDA)』
『誓約書』
そして、『労働条件通知書』。
「な、なんだこれ……」
隣の席の男子学生が震える声で囁く。
「『固定残業代:月80時間分を含む』……? 80時間って、過労死ラインじゃ……」
会場に動揺が広がる。
「退職時は損害賠償」「競業避止義務(ライバル社への転職禁止)」など、並んでいる文言は奴隷契約そのものだ。
サインを躊躇う者、青ざめる者。
だが、その中でただ一人、勇(司馬懿)だけは涼しい顔でボールペンを走らせていた。
(ククッ……。80時間の残業? 笑わせる)
勇は鼻で笑った。
かつて仕えた曹操軍の行軍は、三日三晩不眠不休などザラだった。
それに比べれば、空調の効いた室内で80時間など、ただの休息に等しい。
(それに、このNDA……。一見厳重だが、第12条第3項の定義が曖昧だ。『会社の存続に関わる重大な事態』においては免責される抜け穴がある。つまり、私がこの会社を乗っ取ってしまえば、この紙切れは無効化できるということだ)
勇は、現代の法律知識と行政官としての読解力をフル動員し、瞬時に「契約のバグ」を見抜いていた。
これは隷属の契約ではない。潜入のための通行手形だ。
サラサラサラ……。
迷いなく署名し、拇印を押す。
その手つきは、まるで敵将への降伏文書にサインして油断させる策士のそれだった。
「……随分と早いのね」
不意に、隣から声をかけられた。
顔を上げると、そこには一人の女性がいた。
艶やかな黒髪、意思の強そうな瞳。派手ではないが、知性を感じさせる洗練された美女。
彼女の手元を見れば、勇と同じく、すでに署名が済んでいる。
「君こそ。……中身も読まずにサインするタイプには見えないが?」
勇が問い返すと、彼女――美咲は、口元に妖艶な笑みを浮かべた。
「読んだわよ。でも、リスクのない投資なんてないでしょ? この会社には、私のキャリアに必要な『踏み台』がある。それだけよ」
(ほう……)
勇は目を細めた。
ただの従順な羊ではない。虎視眈々と獲物を狙う、狩人の目だ。
剛田や早川のような手駒とは違う、利用価値のある「同盟相手」になるかもしれない。
「奇遇だな。私も、ここはただの通過点だと思っている」
「ふふ、気が合いそうね。私は美咲。よろしく、同期くん」
美咲が差し出した手を、勇は握り返した。
薄暗い会議室で交わされた握手。
それは、ブラック企業という地獄の釜の底で結ばれた、奇妙な共犯関係の始まりだった。
壇上では荀が、満足げに契約書の山を眺めている。
だが彼女は気づいていない。
その山の中に、会社を食い破る獅子が二匹も紛れ込んでいることに。
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【史実から学ぶビジネス兵法】
No.011:誓約と人質
戦国時代や三国時代において、同盟や忠誠の証として「人質」を差し出すことは常識だった。
現代企業において、物理的な人質は取れない。その代わりに用いられるのが、NDA(秘密保持契約)や、入社時にサインさせる誓約書である。
「退職後の同業他社への転職禁止」や「研修費用の返還義務」といった条項は、社員の「職業選択の自由」を事実上の人質に取り、裏切り(転職)を心理的・経済的に封じる鎖として機能する。これを「血判状」と呼ぶか「契約」と呼ぶかは、受け取り手次第である。




