8話
街灯の薄暗い光の中で、厳は立っていた。
包丁を握りしめた手は、ゆっくりと上昇する。その動きは、決定的だ。三年間の地獄。その全てが、この瞬間に凝結していた。
「よ、う…悠真」
掠れた声で名を呼ぶ。その声は、もはや人間のものではない。亡霊の呻きだ。
悠真は、ゆっくりと後ろを振り返った。
その瞬間、厳は見た。悠真の顔に浮かぶ「驚愕」と「恐怖」。その表情を見た時、厳の心の中で何かが満たされた。
少なくとも、悠真は「自分がしたことの結果」を、目の当たりにするのだ。
「…厳?」
悠真の声は、震えていた。
「な、なんで…そんな格好で…」
その問いに、厳は答えない。代わりに、包丁を握りしめた手を、ゆっくりと上げた。
その動きは、意図的で、ゆっくりしていた。悠真に「何が起きるのか」を、完全に理解させるために。
「なんで、だと?」
厳は、悠真に向かって、一歩踏み出した。
「お前が…俺から全てを奪ったからだろうが。」
その言葉は、絶対的だった。疑問ではなく、断定。悠真に反論の余地を与えない。
「あの学園集会の日…お前が、俺の人生を終わらせた。」
厳は、もう一歩踏み出す。その足取りは、まるで狩人が獲物に近づくようだ。
「俺は、お前が広めたデマで、生徒会長の座を追われた。教師たちは、俺を犯罪者のように扱い、親は…」
声が、途中で途切れた。親という言葉を発することさえ、厳の心を刺す。
「俺の人生は、あの瞬間から、地獄に変わったんだ。」
悠真は、後ろずさりを始めた。その動きは、本能的な逃げだ。だが、逃げ場はない。後ろには、壁がある。前には、厳がいる。
「デマ…?違う!俺は、事実を…」
悠真が、必死に言い張る。その様子は、犯人が自分の罪を否定しているように見える。
(そうだ。そのまま逃げるんだ。その顔を、俺に見せ続けるんだ。)
厳の心は、その光景に満足した。だが、それと同時に自分は悪くなくお前が悪いと言ってるように厳は聞こえ、余計に腹が立った。
「事実だと?」
厳の声は、今、完全な怒りに満ちていた。
「寄付金?カンニング?ふざけるな!俺は、そんなことやってない!だが、それをみんなは信じてくれなかったんだ!」
包丁の刃が、明かりに反射して、銀色に輝く。その刃先は、手紙と同時に送られてきた時よりも、さらに研ぎ澄まされたように見える。
「お前は、俺の幼馴染だった。俺が、お前を友達として接したのに…」
その時、厳の心に、わずかな「躊躇」が走った。
幼馴染。
その言葉を口にした時、厳は、小学生の頃の二人を思い出した。一緒に砂場で遊んだ。一緒に昆虫を探した。一緒に、笑った。
だが、その記憶は、すぐに消えた。
(今の俺が、そんなことを思い出している場合か。)
厳は、自分の中の「躊躇」を、強い意志で殺した。
「お前は、俺の地位を奪い、俺の女を奪い、俺の全てを奪った!」
その言葉とともに、厳は悠真の胸倉を掴んだ。
その瞬間、厳の手が伝えたのは、悠真の体の温もりだ。生きている人間の、体温。
(これで最後だ)
厳の指は、強く握りしめられた。
「なんでだ?」
厳は、悠真の目を見つめながら、問う。
「なんでお前は俺のことがそんなに憎い?俺が何かをしたか?何もしてないのに…」
その言葉を発した時、厳は初めて、自分の問いの本質に気づいた。
これは、悠真への問いではなく、自分自身への問いだ。
「なぜ、自分は何もしていないのに、この地獄にいるのか」
その答えは、誰にも分からない。だから、厳は、その答えを「暴力」に変えることにしたのだ。
「なんでお前は俺をこんな地獄に落とした!」
叫びが響き渡る。その叫びは、三年間の地獄の全てを詰め込んだ、最後の悲鳴だった。
「お前は、俺の地獄を知らない」
厳の声は、今、静かになっていた。その静さの中に、より深い絶望が満ちている。
「俺は、あの後、誰にも相手にされず、バイトもクビになり、親にも見放され…ゴミのように生きてきたんだ。」
その時、厳の頬から、一筋の涙が流れ落ちた。
その涙は、悲しみなのか、怒りなのか、後悔なのか。
もはや、厳自身も分かっていない。
「お前は、俺の夢を奪った。俺の未来を奪った。だから…お前にも、同じ地獄を見せてやる。」
包丁を握りしめた手が、再び上昇する。
悠真は、その時、最後の言葉を発した。
「待て、厳!落ち着け!俺は、ただ…伶奈さんを…」
その言葉を聞いた時、厳の心の中で、最後の理性が消え去った。
「つべこべいうな!」
厳は、包丁をゆっくりと、悠真の腹部に突きつけた。
その瞬間、悠真の顔に映ったのは、純粋な「死への恐怖」だった。
「さあ、ざまぁの時間だ。お前が俺に与えた地獄を、今度はお前が味わう番だ。」
厳は、包丁を、悠真の体に突き立てた。
ズブリ。
音が響く。それは、布を切る音ではなく、肉を切り裂く音だ。
包丁の刃が、悠真の内臓に食い込む感触が、厳の腕に伝わってくる。
「ひぃっ…」
悠真の口から、悲鳴が漏れた。その声は、あの時厳を糾弾した時よりも、はるかに弱々しい声だ。
赤い液体が、スーツの白い部分に、鮮烈に浮かび上がる。
(血だ。これが、悠真の血だ)
厳は、その赤い色を、じっと見つめた。
その色は、三年間、見る機会がなかった「希望」の色だ。
悠真は、膝から崩れ落ちた。その体が地面に接する瞬間、厳は包丁を引き抜いた。
その時、悠真の体から、大量の血液が溢れ出した。
「どうだ?この痛み」
厳は、悠真の体を見下ろしながら言う。その目は、もはや人間の目ではない。
「お前が俺に与えた精神的な痛みに比べれば、こんなもの…」
厳は、包丁を再び、悠真の体へ突き立てた。
ズブッ。
もう一度。
ズブッ。
そして、もう一度。
ズブッ…
その度に、赤い血しぶきが、厳の顔や手や衣服に降りかかる。その感触は、冷たく、そして異様に温かい。
「うぐっ…あ…」
悠真の口から漏れるのは、もはや言葉ではなく、単なる音だ。その音の中に、人間としての意識は、もうない。
成人式のスーツは、見るも無残に変わっていく。白い地に、赤いシミが、次々と増えていく。それは、死への進行を可視化する、生々しい表現だ。
厳は、悠真の顔を掴んだ。その手は、血に濡れている。
「お前は、俺の全てを奪った。だから、お前の全てを奪い返す」
厳の目は、完全に血走っていた。もはや彼は、人間ではなく、復讐という一つの感情だけで動く、怪物になっていた。
「お前の地位なんてな、高校を卒業したら一瞬でなくなるものなんだ。だからな、結局のところお前の地位なんて、所詮は飾り物だよ。そんな飾り物で、俺の人生を踏みにじったんだ」
厳は、悠真の体へ、何度も何度も包丁を突き刺した。
その度に、血液が、より鮮烈に溢れ出す。悠真の体は、もはや一つの「肉塊」に成り下がっていた。
「バカだよ。本当にお前は」
その言葉を発した時、厳は、自分が何をしているのかを、ようやく理解した。
自分は、殺している。
その相手は、かつての幼馴染だ。
そして、その理由は…
その理由を、厳は知らない。
いや、知っていた。だが、その理由を言葉にすることはできない。なぜなら、それは「理由」ではなく、単なる「感情」だからだ。
厳は、悠真の胸に、最後の力を込めて、包丁を突き刺した。
ゴリッ。
骨の砕ける音が響く。それは、包丁が心臓に到達した瞬間の音だ。
悠真の体から、力が完全に抜けた。
その時、厳は初めて、自分が「成功した」ことに気づいた。
悠真は、死んだ。
自分の復讐は、成功した。
だが、その成功が、厳に与えるのは、満足ではなく、より深い空虚感だった。
(これで…終わったのか…?)
厳は、死体を見下ろしながら、そう思った。
長い間、空を見つめていた。夜の闇は、変わらず、黒い。
その時だった。
遠くから、赤と青の光が近づいてくるのが見えた。
サイレン。
その音は、厳の耳に、一つの「結論」として響いた。
これで、全てが終わる。
自分は、殺人鬼になった。
そして、今から、逃げるか、それとも捕まるか。
その選択が、厳の前に提示されていた。
(逃げるか…?)
厳は、自分の手を見た。
その手は、血まみれだ。悠真の血で、真っ赤に染まっている。
その血を見つめながら、厳は思った。
(逃げて、何になるのか…?)
三年間、逃げてきた。社会から、親から、人間から。
だが、その逃げは、何ももたらさなかった。もたらしたのは、ただの絶望だけだ。
そして、今、自分は殺人を犯した。
その殺人も、何ももたらさない。もたらすのは、ただの虚無だけだ。
(ああ…)
厳は、ゆっくりと立ち上がった。
血まみれの手を、見上げた。
その手は、もはや「人間の手」ではなく、「怪物の手」だった。
サイレンの音は、ますます近づいてくる。
その時、厳は一つの決断をした。
(もう、いいだろう。もう、疲れた。)
包丁を捨てた。その包丁は、地面に落ち、金属音を立てた。
厳は、パトカーの到着を待つことにした。
もう、逃げる気力もない。
もう、生きる気力もない。
ただ、ここで、待つだけだ。
赤と青の光が、厳の体を照らし始めた。
パトカーから、警察官が飛び出してくる。
「動くな!手を上げろ!」
その指示に、厳は従った。
手を上げた。その手は、まだ、血で濡れている。
警察官が、厳に近づいてきた。そして、厳を地面に押し倒した。
「現行犯逮捕する。〇〇時〇〇分…」
その言葉を、厳は聞いていなかった。
もはや、何も聞く気力がなかった。
ただ、夜空を見つめながら、厳は思った。
(これで…終わりだ)
厳の心は、完全に空っぽになっていた。
復讐も終わった。人生も終わった。
残っているのは、ただの「殻」だけだ。
その殻が、パトカーに乗せられた。
赤と青の光は、夜の街を照らし続けた。
そして、サイレンが、ずっと鳴り続けた。
厳は、その音を聞きながら、自分が「終わった」ことを、深く認識した。
もう、何も望むことはない。
もう、何も求めることはない。
ただ、罪を償うだけだ。
その時、初めて、厳は自分の人生が「完全に終わった」ことを理解した。
そして、その「終わり」は、自分が作ったものではなく、自分が「選ばされた」ものなのだ。
その真実に、厳は、深く絶望した。




