4話
速水悠真が生徒会長に就任し、桜庭伶奈と正式に交際を始めてから、もう三年が経とうとしていた。
あの日の興奮と高揚は、今も悠真の心の奥底に、鮮やかな色彩を保ったまま残っている。厳を学校から追放し、伶奈という学園一の美少女を手に入れた。それは、ラノベの主人公にしか許されない、完璧な「ざまぁ」と「イチャイチャライフ」の始まりだったはずだ。
しかし、現実は、ラノベのページをめくるように都合よくはいかなかった。
最初は、まさに夢のような日々だった。生徒会室での秘密のキス。放課後の手繋ぎデート。伶奈は悠真の隣で、いつも太陽のように笑っていた。
「悠真くんが生徒会長になってくれて、本当に良かった。これで、私も自由になれた」
その言葉を聞くたびに、悠真は自分の正義が報われたと確信した。
だが、一年が過ぎる頃から、二人の関係は、まるで冬の朝のように冷え込み始めた。
「ねえ、伶奈さん。今週末、またあの遠くのショッピングモールに行かない?」
悠真が誘うと、伶奈はいつも決まって、申し訳なさそうな顔で断った。
「ごめんね、悠真くん。今週末は、ちょっと生徒会の仕事が立て込んでて…」
悠真は、生徒会長の座を伶奈に譲り、自分は副会長として彼女を支えていた。しかし、生徒会の仕事は、悠真が全て引き受けていると言っても過言ではなかった。伶奈は、ほとんど生徒会室に顔を出さない。
「…生徒会の仕事って、俺が全部やってるけど?」
「あ、そうじゃなくて…その、家の用事っていうか…」
伶奈は、視線を逸らした。その瞳の奥に、悠真は以前のような熱を感じることができなくなっていた。
デートの回数は、目に見えて減っていった。最初は月に何度も行っていたのが、三ヶ月に一度になり、やがて半年に一度になった。
LINEのやり取りも、業務連絡以外はほとんどない。悠真が送る「おはよう」「おやすみ」といったメッセージには、既読すらつかないことが増えた。
(忙しいんだ。伶奈さんは、学園一の美少女で、生徒会長なんだから)
悠真は、そう自分に言い聞かせた。しかし、心の奥底では、冷たい水が流れ込んでいるのを感じていた。
それでも、悠真は伶奈のことが好きだった。
彼女の、あの時の笑顔。自分を「勇者様」と呼んでくれた声。唇に触れた、あの甘い感触。それらが、悠真の心を繋ぎ止めていた。
(大丈夫。卒業したら、生徒会の仕事も終わる。そしたら、また昔みたいに…)
悠真は、卒業後の未来を夢見ていた。伶奈との結婚。小さな家。そして、二人の子供。
それは、悠真にとって、厳との戦いに勝利した「報酬」であり、「生きる意味」そのものだった。
そして、高校を卒業して二年。悠真は、二十歳の成人式を迎えた。
会場は、地元の公民館。久しぶりに会う同級生たちの顔は、皆、大人びて見えた。
悠真は、少しだけ奮発して仕立てたスーツに身を包み、会場の入り口で、一人の女性を待っていた。
桜庭伶奈。
彼女は、会場のざわめきを一瞬で静めるほどの、圧倒的な美しさで現れた。鮮やかな青の振袖は、彼女の白い肌と黒髪によく映え、まるで絵画から抜け出してきたようだ。
「悠真くん!」
伶奈は、悠真を見つけると、駆け寄ってきた。
「伶奈さん!す、すごく綺麗だね…」
悠真は、言葉を失った。
「ふふ。ありがとう。悠真くんも、スーツ似合ってるよ。生徒会長みたい」
「もう、会長は伶奈さんでしょ。それに、もう卒業してるんだから、、、」
悠真は、久しぶりに、心から笑い合った。
会場に入ると、伶奈は悠真の腕にそっと手を絡ませた。
「ねえ、悠真くん。私たち、ラブラブなところ、みんなに見せつけちゃおうよ」
その言葉に、悠真の心臓は激しく鼓動した。
(ラブラブ…?久しぶりに、伶奈さんが俺に…)
二人は、同級生たちの羨望の眼差しを浴びながら、会場を回った。
「悠真と伶奈、まだ続いてたんだな!すげえよ、お前!」
「生徒会長と副会長のカップルとか、マジでラノベじゃん!」
周囲の言葉は、悠真の心を満たした。そうだ。俺は、勝者だ。厳を倒し、この美少女を手に入れた。
悠真は、伶奈の耳元で囁いた。
「ねえ、伶奈さん。卒業したら、結婚しよう」
伶奈は、一瞬、目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「ふふ。悠真くん、気が早いなぁ」
「早くないよ。俺は、ずっと伶奈さんのことが…」
その時、悠真はふと、あることに気づいた。
「そういえば、厳がいないね」
大嶽厳。悠真の人生を大きく変えた、元幼馴染。
「あいつ、成人式に来てないのかな?」
「さあ?どうでもいいんじゃない?」
伶奈は、興味なさそうに言った。
「まあ、そうか。あいつが今、どうしてるかなんて、俺には関係ない」
悠真は、そう言って、厳のことを頭から追い出した。彼のいない成人式は、悠真にとって、厳の存在が完全に過去のものになったことを意味していた。
(ざまぁ、完了だ)
悠真は、勝利の余韻に浸った。
成人式が終わり、会場の外に出た。冬の夕暮れは早く、空は既に深い藍色に染まっていた。
「ねえ、悠真くん。私、ちょっと用事があるから、一人で帰ってくれる?」
伶奈は、急にそう言った。
「え?用事って…」
「ごめんね。ちょっと、急な連絡が入っちゃって。また、明日連絡するから」
伶奈は、悠真の返事を待たずに、タクシーに乗り込み、去っていった。
(用事…?あんなにラブラブだったのに…)
悠真の心に、再び冷たい水が流れ込む。しかし、彼はすぐにその感情を打ち消した。
(仕方ない。伶奈さんは、綺麗なんだし、忙しいんだ)
悠真は、一人で駅に向かって歩き始めた。スーツ姿の同級生たちが、楽しそうに談笑しながら、悠真を追い越していく。
(俺は、一人だ)
その時、悠真は、背中に鋭い視線を感じた。
(誰だ…?)
悠真は、立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返った。
街灯の薄暗い光の中に、一人の男が立っていた。
その男は、ボロボロの格好をしていた。衣服とはあまりいえないようなふうに泥と血で汚れ、髪は伸び放題。顔には無精髭が生え、目は虚ろに窪んでいる。まるで、地獄から這い上がってきた亡霊のようだった。
そして、その男の右手には、鈍く光るナイフが握られていた。
悠真は、その男が誰であるかを認識するのに、数秒を要した。
「…厳?」
大嶽厳。かつての幼馴染。学園の絶対的権力者。
「よ、う…悠真」
厳は、まるで何年も言葉を発していなかったかのように、掠れた声で言った。その声は、悠真の知る、傲慢で自信に満ちた厳の声とは、似ても似つかないものだった。
「な、なんで…そんな格好で…」
悠真は、恐怖で足がすくみ、一歩も動けなかった。
「なんで、だと?」
厳は、ナイフを握りしめた手を、ゆっくりと上げた。
「お前が、俺から全てを奪ったからだろうが」
厳は、悠真に向かって、一歩、また一歩と近づいてきた。その足取りは、獲物を追い詰める獣のようだった。
「あの学園集会の日…お前が、俺の人生を終わらせた」
厳の瞳は、狂気に満ちていた。
「俺は、お前が広めたデマで、生徒会長の座を追われた。教師たちは、俺を犯罪者のように扱い、親は恥だと罵った。俺の人生は、あの瞬間から、地獄に変わったんだ」
「デマ…?違う!俺は、事実を…」
「事実だと?寄付金?カンニング?ふざけるな!俺は、そんなことやってない!だが、それをみんなは信じてくれなかったんだ!」
厳は、怒りに声を震わせた。
「お前は、俺の幼馴染だった。俺が、お前を友達として接したのに、俺は一回もお前のことを罵ったりしたことはなかったのに…お前は、俺の地位を奪い、俺の女を奪い、俺の全てを奪った!」
厳は、ナイフを悠真に向けた。
「なんでだ?なんでお前は俺のことがそんなに憎い?俺が何かをしたか?何もしてないのに、なんでお前は俺をこんな地獄に落とした!」
厳は、悠真の胸倉を掴んだ。その手は、冷たく、力強かった。
「お前は、俺の地獄を知らない。俺は、あの後、誰にも相手にされず、バイトもクビになり、親にも見放され…ゴミのように生きてきたんだ」
厳の顔から、一筋の涙が流れた。それは、悲しみの感情だけでなく、純粋な憎悪の涙だった。
「お前は、俺の夢を奪った。俺の未来を奪った。だから…お前にも、同じ地獄を見せてやる」
「待て、厳!落ち着け!俺は、ただ…伶奈さんを…」
「つべこべいうな!」
厳は、ナイフを悠真の腹部に突きつけた。
「さあ、ざまぁの時間だ。お前が俺に与えた地獄を、今度はお前が味わう番だ」
「やめろ!厳!やめてくれ!」
悠真は、叫んだ。しかし、その声は、夜の闇に吸い込まれていった。
厳は、悠真の叫びを無視し、ナイフを振り下ろした。
ズブリ。
鈍い音が響き、悠真の腹部に激痛が走った。熱い液体が、スーツに染み込んでいく。
「ひぃっ…」
悠真は、膝から崩れ落ちた。
「どうだ?この痛み。お前が俺に与えた精神的な痛みに比べれば、こんなもの…」
厳は、悠真の腹部からナイフを引き抜き、再び振り下ろした。
ズブッ、ズブッ、ズブッ…
ナイフは、悠真の体を何度も、何度も貫いた。
「うぐっ…あ…」
悠真の口から、血の泡が溢れた。成人式のスーツは、見るも無残な血だまりに変わっていく。
「お前は、俺の全てを奪った。だから、お前の全てを奪い返す」
厳の目は、完全に血走っていた。彼は、もはや人間ではなく、復讐の鬼と化していた。
「お前の地位なんてな、高校を卒業したら一瞬でなくなるものなんだ。だからな、結局のところお前の地位なんて、所詮は飾り物だよ。そんな地位で、俺がいろんなパワハラができると思ってたんだな。バカだよ。本当にお前は。」
厳は、悠真の顔を掴み、自分の顔に近づけた。
「これが、お前の『ざまぁ』の結末だ」
悠真の視界は、血で滲んでいた。遠くで、車のライトが見える。助けを求める声を出そうとするが、喉からは、血の塊しか出てこない。
(伶奈さん…助けて…)
悠真の脳裏に、伶奈の笑顔が浮かんだ。しかし、それはすぐに、消えてなくなった。
「ああ…」
悠真は、絶望した。自分が信じていた地位は、こんなにも貧弱で、こんなに人間は死と隣り合わせなのだと。
厳は、悠真の胸に、最後の力を込めてナイフを突き刺した。
ゴリッ。
骨を砕くような、嫌な音が響いた。
悠真の体から、力が抜けていく。視界が、ゆっくりと暗転していく。
(ああ…自分は…死ぬんだ…)
最後に残ったのは、恐怖と、裏切られたことへの絶望。
「ひぃ…ひぃ…」
悠真の口から、か細い、虫のような声が漏れた。
「たす…けて…」
その声は、誰にも届くことなく、夜の闇に消えていった。
厳は、血まみれのナイフを捨て、悠真の冷たくなった体を見下ろした。
「これで、チャラだ」
厳は、そう呟き、闇の中へと消えていった。
残されたのは、血の海に横たわる、かつての虚実な権力を欲した愚者の、無残な亡骸だけだった。




