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2話

図書室を出た後も、悠真の心臓は激しいノイズを奏で続けていた。桜庭伶奈の残像が、彼の網膜に焼き付いている。あの、悲しげに潤んだ瞳。そして、自分にだけ見せた、太陽のような満面の笑顔。


(厳が、俺のことを『あいつの話をするな』…?そんなはず、ない)


信じたくなかった。大嶽厳は、確かに傲慢で横暴だが、悠真の人生において唯一無二の、古い絆で結ばれた幼馴染だった。厳が、自分の唯一の繋がりまで否定するほど、権力という名の毒に侵されてしまったのだろうか。


校舎の昇降口に差し掛かったとき、背後から低い声で名を呼ばれた。


「よう、悠真」


振り向くと、そこに立っていたのは大嶽厳だった。生徒会長としての公務を終えたばかりなのか、いつもよりシャツのネクタイが緩められている。その風貌は、まるで王国の王子が私服に着替えたかのようで、周りの生徒たちは彼を避けるように道を空けていた。


「厳…」


「なんだ、その顔。幽霊でも見たみてぇな顔しやがって」

厳は豪快に笑う。その笑い方は、昔と変わらない。幼少期に悠真が転んだとき、大怪我を心配するのではなく、その大げさな泣き顔を笑い飛ばしていた、あの頃の厳だ。


「いや、別に…」

悠真は視線を逸らした。

「何だよ、急に」


「最近、全然一緒に帰らねぇじゃねぇか。お前、図書室の奥に引きこもってばっかでさ」

厳は悠真の肩に、何の悪気もないかのように、ドンッと手を置いた。その力強い感触が、悠真の心をかき乱す。


「…まぁな。別にいいだろ、俺の自由だ」


「へっ、自由?お前がそんな言葉使うとはな。いいんだよ、お前は俺の隣にいれば誰にも文句言われねぇんだから。まぁ、いい。今日は付き合ってやる」


厳の言い方には、いつも通り「上から目線」の傲慢さが滲み出ていた。しかし、それは厳のデフォルト設定だ。この横暴さが、悠真にとって長年の付き合いの中で「親愛の情」としてコード化されてしまっている。


二人並んで校門を出る。悠真は内心、複雑だった。隣を歩いているのは、学園のトップであり、自分に秘密を打ち明けた美少女の彼氏だ。そして、その美少女を陰で威圧しているとされる人物だ。


「なぁ、厳」


「なんだ?」


悠真は、勇気を出して、最も聞きたかったことを尋ねた。


「お前と、桜庭さん…伶奈、の件なんだけど」


厳はピタリと足を止めた。そして、悠真の方へ体を向けた。


(来るか?ここで、あの怒鳴り声が…!)


悠真は全身を硬直させ、最悪の事態を覚悟した。もしかしたら、この場で厳に突き放され、二度と口を利いてもらえなくなるかもしれない。彼の心の中で、幼馴染の友情と、伶奈の悲しげな顔が天秤にかけられた。


しかし、厳の口から出たのは、全く予想外の反応だった。


「ああ、伶奈のことか。なんだよ、やっと興味持ったか、お前」


厳は、満面の笑顔だった。その笑顔は、太陽の光を浴びたように明るく、隠しようのない喜びを全身から放っていた。


「ああ、そうだぞ。俺はあいつと付き合えたんだ。あの桜庭伶奈を、俺の女にしたんだ」


「…そんなに、嬉しいのか」


「当たり前だろ!学年で一番の美女だぞ?告白してきた奴は星の数ほどいるが、全員振ってたんだ。それが俺とだぜ?俺の生徒会長としての力、いや、俺自身のカリスマ性が、あいつを引き寄せたんだ」


厳は、どこか自慢げだが、その言葉の端々には、心底から伶奈との交際を楽しんでいるという純粋な歓喜が溢れていた。


そして、厳は滔々(とうとう)と話し始めた。


「聞いてくれよ、先週末のデートの話。あいつ、意外と甘いもの好きでさ。駅前の行列のできるパンケーキ屋に行きたがってな。俺が並んでる間、ずっと腕に抱きついてきて…」


「…うで?」


「ああ。恥ずかしがって顔は赤かったが、離れようとはしなかったな。そんで、パンケーキが運ばれてきた時なんて、目をキラキラさせて…まるで、子猫みたいで可愛かったぜ」


厳は、まるで恋愛小説の主人公のように、照れくさそうに頭を掻いた。悠真に向けるこの笑顔は、権力や傲慢さとは無縁の、ただの「恋する男」の顔だった。


悠真の心の中で、伶奈の言葉が急速にしぼんでいく。


(息苦しい?怖く感じる?…勘違いだったんじゃないか?厳は、こんなにも嬉しそうで、幸せそうだ。パンケーキで目をキラキラさせていたなんて…厳は、彼女を大切にしている。それに、俺の話を持ち出して怒鳴ったっていうのも…もしかしたら、厳が怜奈に依存しすぎてるのを、勘違いかもしれないな。)


厳の陽気な笑顔と、生々しいデートの描写は、図書室で伶奈が見せた悲しげな表情を、一瞬にして色褪せさせた。


「まぁ、お前には分からんだろうけどな。お前はラノベの世界に引きこもってる方が幸せだろ?」厳はそう言って、再び悠真の肩を叩いた。その言葉は、確かに悠真の趣味を馬鹿にするニュアンスを含んでいたが、悪意は感じられなかった。


「…そう、かもな」


悠真は、安堵した。そうだ、厳は変わっていない。彼は、ただ権力者として少し不器用になっただけだ。伶奈の涙は、きっと彼女の繊細さが生んだ、単なる誤解なのだ。


二人は別れ、悠真は自宅へ向かった。彼の心は、再び、厳との友情という名の「いつもの静寂」を取り戻しつつあった。



翌日。


悠真は、昨日の一件で心臓に悪い思いをしたこともあり、再び図書室の奥へと逃げ込んだ。昨日のデート話を聞いたことで、心は落ち着きを取り戻し、いつもの日常に戻れる気がしていた。


(昨日の今日で、伶奈さんが来るはずもないしな)


文庫本を取り出し、愛読のラノベを開く。しかし、彼のいつもの席には、先客がいた。


その男は、図書室の窓際で、大量の紙とノートPCを広げ、頭を抱えていた。その光景は、図書室の奥では滅多に見られない、異様な光景だった。


「…鳳凰院、慧?」


悠真が思わず口にした名前は、学園の誰もが知る名前だった。


鳳凰院 慧(ほうおういん けい)


学年一の秀才であり、テストではいつも満点。教師の話を聞かず、常にひと学年先の大学レベルの参考書を読んでいる「天才」だ。生徒会では厳の右腕として活動しているが、厳とは対照的に常に冷静で、感情を一切表に出さない能面のような男だ。


そんな彼が、まるで迷路に迷い込んだかのように「うーん」と唸り、髪を掻きむしっている。悠真にとって、それは「太陽が西から昇る」のと同じくらいの珍事だった。


悠真が立ち尽くしていると、慧は顔を上げた。その目は、疲労の色を濃く浮かべていた。


「ああ、速水くんか。すまない、こんな場所で騒がしくして」


「い、いえ。鳳凰院さんがこんなに悩んでいるなんて、珍しいから…」


「悩み、ね。まぁ、そうだろうな」慧は皮肉めいた笑みを浮かべた。その表情は、普段の完璧な彼からは想像できない、人間味のある苦悩を湛えていた。


悠真は、好奇心に抗えず、尋ねた。


「一体、何をやってるんですか?鳳凰院さんまでが、そんなに頭を悩ませるなんて」


慧は、机の上に広げられたデザイン画と、文字がぎっしり詰まったA4用紙の束を指さした。


「これだよ。見ての通り、体育祭のパンフレットの最終原稿だ」


「パンフレット?生徒会全員で分担してやってるはずじゃ…」


「ああ、そうさ。本来ならな」慧は深いため息をつき、ノートPCを悠真の方へ向けた。画面には、パンフレットのレイアウトと、メンバーのタスク一覧が映し出されていた。


「これを見てくれ。本来の俺の担当は『競技ルールの最終校正』だ。だが、今はここに『開会式・閉会式の挨拶原稿作成』、そして…『生徒会長メッセージ作成』が追加されている」


悠真は、リストに表示された厳のタスクと、伶奈のタスクが、すべて慧の項目に統合されているのを見た。


「これって…」


慧は、嫌な記憶を呼び覚ますかのように、顔を歪めた。


「昨日、厳に呼び出された。『鳳凰院、お前は優秀だから、俺の担当をやってくれ。俺はちょっと、伶奈と大事な用があるんでな』と。俺は規則上、彼の代理はできないと断った。そうしたら…」


慧の言葉とともに、悠真の脳裏に、まるで映画のワンシーンのように鮮明な「映像」が映し出された。



場所は生徒会室。机を挟んで、厳しい表情の厳と、冷静な慧が対峙している。


「…規則上、生徒会長の職務代理はできません、大嶽会長」


厳は、生徒会室の机を蹴り上げる。机は金属音を立てて大きく揺れ、その上の書類が宙を舞う。


「規則だと?フン。この学園で規則を決めているのは誰だ、鳳凰院?俺だ。俺の言うことが規則だ」


厳は、慧の胸倉を掴み上げた。


「お前は、俺の隣にいて、俺の力を支える役目だろうが!それを、俺の個人的な用事を断るとは、どういうつもりだ?いいか、俺がパンフレットを作るより、伶奈と二人でデートに行ったほうがいいだろ!!」


厳は慧を突き飛ばし、足元のパンフレット原稿を指さした。


「そして、この伶奈の分の仕事も、お前がやっておけ。あいつは美の象徴だ。ああいう美しい存在は、事務作業で目を曇らせるべきではない。あいつの分も、俺が『自分でやるよ』と言っておいた。だから、俺の代わりにお前がやる。分かったな?」


厳の目は、冷たく、威圧的だった。拒否すれば、学園での地位どころか、家族にまで影響が及ぶのではないかという、絶対的な権力者の剣幕だった。慧は唇を噛み締め、静かに一礼するしかなかった。


「…承知いたしました」


そんなことを聞いた悠真は、無意識に息を止めていた。


「…そんな」


それは、昨日自分と笑いながらデートの話をしていた「恋する男」の姿ではなかった。それは、ルールも常識も無視し、自分の支配欲と独占欲を満たすためだけに、友人を、同僚を、そして恋人をも「道具」として扱う、冷酷な絶対的権力者の姿だった。


「信じられないだろ?だが、現実だ」


慧は、悠真の戸惑いを正確に読み取った。


「大嶽は、あの分厚い皮の下に、彼の真の内心を完璧に隠している。彼は笑いながら、平然と他者を踏みにじる。あの男は…外面と内面が全く違う」


悠真の心に巣食っていた小さな疑念は、ここで完全に確信へと変わった。昨日、厳が自分に見せた「恋する男」の笑顔は、伶奈を独占し、慧のような優秀な人間を支配下に置いているという、彼の傲慢な支配欲を満たすための仮面だったのだ。



悠真が、厳の二面性に対する怒りと絶望で、全身の力が抜けていくのを感じた、その瞬間だった。


「悠真くん!」


図書室の入口から、鈴を転がすような、しかし焦りに満ちた声が響いた。


「静かにしなさい!ここは図書室です!」


案の定、司書教諭の厳しい声が響き渡ったが、桜庭伶奈は気に留める様子もなく、悠真の元へまっすぐ駆け寄ってきた。その表情は、昨日と同じく、恐怖と不安に満ちていた。


「速水くん、よかった。図書室にいるかもって思って…」


慧は、冷静に状況を分析するように、伶奈を一瞥したが、すぐに自分の仕事に戻った。悠真は、その慧の姿を見て、彼もまた厳の被害者なのだという認識を新たにした。


「どうしたんだ、桜庭さん。そんなに慌てて」悠真の声は震えていた。


伶奈は、周囲に誰もいないことを再び確認すると、震える手でスマートフォンを取り出した。そして、ロックを解除し、画面を悠真の目の前に突きつける。


「これ、見て…大嶽くんから、今来たDMなの」


画面に表示されていたのは、大嶽厳のアカウントと、伶奈とのチャット画面だった。その最新のメッセージ群は、伶奈からではなく、厳から一方的に送られてきたものだ。


悠真は、その文字を追うにつれて、全身の血液が一瞬にして凍りつくのを感じた。


大嶽厳:

「おい、伶奈。悠真がお前のこと聞いてきたが、お前悠真に何かされなかったか?」


桜庭伶奈:

「いや、そんなことないけど。何で?」


大嶽厳:

「いや、あいつはヤバいやつだからな。あんなヘラヘラ気持ち悪い表情をしてるくせにどすけべでな、読んでるラノベもキモいし女の人を見る時も胸と尻しか見ないんだ」


大嶽厳:

「え、そうなの?って、そう聞くしかないだろ。あいつがどんなに外面を良くしてても、俺には分かる。それだけじゃなくてな、あいつ、俺が知ってるだけで、裏で友達の財布から金盗んでるし、テストの時もカンニングしてたぞ。まあ、俺の地位と名誉があるから黙ってるけどな」


大嶽厳:

「ああ、それだけじゃなくてな、あいつは俺の幼馴染ってことで、俺にぶら下がってるだけの寄生虫だ。俺がいなきゃ何もできねえくせに、俺の女に近づこうとしてるのが気に入らねえ」


悠真の視界は、歪んだ。


(ヘラヘラ気持ち悪い表情…どすけべ…ラノベもキモい…)


厳が、自分の陰で、自分をこんなにも卑劣で、品性のない人間だと断定し、さらに事実無根の犯罪行為まででっち上げて、伶奈に吹き込んでいる。しかも、そのメッセージには、悠真の趣味や、彼自身の容姿に対する、最も痛いところを突く罵倒の言葉が並んでいた。


「…嘘、だろ」


悠真は、声にならない悲鳴を上げた。昨日、自分に向けられた、あの満面の笑顔は、やはり全てが欺瞞だった。厳は、自分の目の前で優しく振る舞いながら、裏では自分の全人格を否定し、社会的に抹殺しようとしていたのだ。


長年抱えてきた「自分は厳の引き立て役ではない」というプライドは、粉々に砕け散った。厳は、彼を「幼馴染」ではなく、単なる「俺の言うことを聞くべき下僕」としか見ていなかった。そして、その下僕が、自分の彼女と接触した途端、牙を剥いてきたのだ。


(俺は、そんなに気持ち悪いのか?俺は、俺の夢中になっているラノベの世界さえも、他者から見たら嘲笑の対象なのか?…厳が、俺のことを、あんなにも…)


自己否定の負のスパイラルが、悠真の精神を締め付けた。体中の血が熱くなり、めまいがした。彼は、椅子から立ち上がることすらできない。図書室の静寂が、彼の内なる叫びを嘲笑しているように感じられた。



その時、柔らかな衝撃が悠真の体を包み込んだ。


「大丈夫」


桜庭伶奈が、悠真の目の前で、彼に抱きついていた。


悠真のボサボサの髪が、伶奈の長い黒髪に触れる。彼女の制服から漂う、清潔で甘いシャンプーの香りが、彼の混乱した五感を麻痺させた。


「大丈夫よ、悠真くん。私は、あなたがそんなことしてないって、知ってるから」


伶奈の細い腕が、悠真の背中に回される。インキャの悠真にとって、これほど近くで異性に触れられることは初めてだった。その温もりは、厳の言葉で冷え切った彼の心に、火を灯すように熱を伝えた。


「だって、速水くんは、私が困っていた時、ちゃんと話を聞いてくれた。誰にも言えないって泣きそうだった私を、助けてくれたんだよ?そんな優しい人が、どうしてあんなひどいことできるの?」


伶奈の声は、悠真の耳元で、甘く、囁くように響いた。


「…桜庭さん…」


「怖かったよね。大嶽くんのあんな言葉、聞いちゃって。彼は、速水くんを、そして私を…道具としてしか見てないんだよ」


悠真は、伶奈の言葉の説得力に、完全に引き込まれた。彼女の体温、彼女の信頼。それら全てが、厳の言葉で崩壊した彼の自己肯定感を、一つ一つ拾い集めてくれるように感じられた。


「…俺は…俺は、厳の幼馴染だからって、今まで目を瞑ってきたけど…もう、無理だ」


「うん。無理しなくていいよ」伶奈は悠真の体を離し、彼の両肩に手を置いた。その瞳は、優しさの中にも、強い光を宿していた。


「ねえ、悠真くん。私、もう彼には我慢できない」


「…」


「一緒に、彼をギャフンと言わせない?あんな酷いことを裏で言っている彼を、この学園のトップの座から、引きずり下ろそうよ」


悠真の胸は、激しく鼓動した。それは、恐怖の鼓動ではなかった。初めて「正当な怒り」を覚えたことによる、決意の鼓動だった。


自分を否定し、嘲笑し、犯罪者に仕立て上げようとした幼馴染への憎悪。


そして、その憎悪を晴らすために、学園一の美少女と秘密の共闘関係を結ぶという、彼のラノベの主人公のようなシチュエーション。


(そうだ。俺は、厳の引き立て役なんかじゃない。俺は、俺の正義のために戦うんだ。そして、この美少女を守るんだ!)


悠真は、震える声で、しかし強い意志を持って頷いた。


「…わかった。桜庭さん。俺は、厳を許せない」


「ありがとう、悠真くん!」


伶奈は、再び満面の笑顔を浮かべ、悠真の手を握った。その手は、冷えていた悠真の手とは対照的に、温かかった。


図書室の静寂の中で、悠真と伶奈は、学園の絶対的権力者に対する、秘密の共謀者となった。悠真の孤独な日常は、ここに終わりを告げ、幼馴染である権力者にへと立ち向かうチャレンジャーにへとなったのであった。

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