1話
速水悠真にとって、学校生活はノイズだった。
教室のざわめき、体育館の熱狂、廊下のすれ違いざまに聞こえる派手な笑い声。それらすべてが、まるで耳元で鳴り続ける不協和音のように感じられ、彼の内向的な心を削っていった。だから、悠真が高校の三年間を通じて「聖域」としてきたのは、図書室の最奥、窓際の目立たない席だった。
そこは、彼の世界だった。壁一面を埋め尽くす活字の海は、現実の煩雑さから彼を守る防波堤だ。特に愛読しているのは、現実から少しだけ浮遊したような世界を描くファンタジー小説、いわゆるライトノベルだった。
その日も、悠真は静かに文庫本のページをめくっていた。午後の陽光が、埃の粒を金色に浮かび上がらせながら差し込み、彼のデスクの上で静かに踊っている。周囲には誰もおらず、古いエアコンの低い唸り声と、紙を擦る微かな音だけが空間を満たしていた。この完璧な静けさこそが、悠真の精神安定剤だった。
(主人公が、幼馴染に裏切られて、世界を敵に回す展開か……。ベタだけど、やっぱり引き込まれるな)
小説の主人公の孤独な決意に感情移入しながら、悠真はため息をついた。幼馴染という存在は、彼にとっても特別だ。
大嶽厳。
悠真の「たった一人の幼馴染」であり、この学園における「絶対的権力者」でもある。生徒会長を務め、その圧倒的な成績とカリスマ性で先輩をも封じ込み、学園のトップカーストに君臨している男だ。彼は周囲を睥睨し、時に傲慢な態度を取るが、悠真に対してだけは、古くからの絆を理由に、ぞんざいながらも親愛の情を見せていた。
厳の存在は、地味で控えめな悠真にとって、一種の「保険」でもあった。厳の隣にいれば、誰も悠真を馬鹿にしたり、いじめたりすることはなかった。しかし、その距離感はこの高校、辺系高校に入ってから変わり始めていた。厳の周りには常に人が集まり、悠真は次第にその光の輪から遠ざかることを選んだ。
「俺は、厳の引き立て役なんかじゃない」
そう心の中で呟きながらも、彼の隣にいると、自分がまるで空気のように感じられることが増えたのだ。
そして、その厳の傍には、いつも一人の美少女がいる。
桜庭伶奈。
この学園で「学園一の美少女」と誰もが認める存在だ。長い黒髪は流れる絹のように美しく、透き通るような肌と、憂いを帯びた大きな瞳は、見る者を一瞬で魅了する。告白の数は数えきれないが、彼女は全てを丁重に断ってきた。そんな高嶺の花が、なぜか一ヶ月前から厳と付き合い始めたのだ。
「厳の奴、相変わらず凄いな」
悠真は、どこか遠い国のニュースを見るような感覚で、二人のゴシップを聞いていた。自分とは全く関わりのない、眩しすぎる世界。だからこそ、図書室の静寂が心地よかった。
カタン。
不意に、遠い入口付近で椅子を引くような小さな音がした。
悠真は反射的に顔を上げ、入口を見た。誰かが入ってきたのだろう。いつものことだ。再び本に視線を戻そうとした、そのとき。
彼の席の横にある書架の陰から、人が現れた。
心臓が一瞬跳ね上がった。こんな奥まった場所まで、誰かが来ることはめったにない。
現れたのは、その瞬間まで悠真の頭の中で「遠い存在」だったはずの人物だった。
桜庭伶奈。
悠真は手に持っていた文庫本を思わず閉じてしまった。
「…さ、桜庭さん?」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど上擦っていた。
彼女はいつも、厳と一緒に行動しているか、女子のグループに囲まれているかのどちらかだ。図書室に来るとしても、せいぜい入口近くの新着図書コーナーをちらっと見る程度で、こんな奥のラノベコーナーに立ち入る姿など想像もしていなかった。
伶奈は、相変わらずその場で光を放っているように見えた。午後の柔らかな光は、彼女の黒髪を一層輝かせ、制服のブレザー姿さえも、まるでハイブランドのモデルのように着こなしている。
そして何より、悠真の目の前に立っている。これは現実なのか。
「あ、ごめんなさい、速水くん。驚かせちゃった?」
彼女の声は、噂に違わず、澄んだ水が静かに流れるような透明感があった。その表情は、少し困ったような、しかし確かな親しみを感じさせる微笑みを浮かべていた。
「い、いえ。まさか桜庭さんが、こんな奥まで来るとは思ってなかったので…」
悠真は、目の前の机の下で、組んだ両手の指先が冷たくなっているのを感じていた。いつもは誰も見ていないからと気を抜いていたが、学園一の美少女を前に、自分のボサボサな髪も、読んでいる本のタイトル(『勇者パーティから追放された俺は、実は最強の錬金術師でした。〜たまたま助けた美少女とハーレム作ってざまぁ&復讐します!』)がバレるのではないかと、妙な緊張感に襲われた。
伶奈は、悠真の机の脇にある空いている椅子を指さした。
「ここ、座ってもいいかな?」
「あ、は、はい!もちろんです」
悠真が慌てて返事をすると、彼女はそっと椅子を引き、対面に座った。彼女が座っただけで、図書室の空気が変わったような気がした。いつもの静寂に、緊張という名の別のノイズが加わったのだ。
「あの、何か御用ですか?もしかして、生徒会、のことで…って、僕は生徒会ではないですし、、、」
悠真は自分の中で自問自答した。伶奈が生徒会の仕事で、図書室の隅のインキャに話しかけてくる理由なんてあるはずがない。
伶奈は、優しく微笑んだまま、静かに口を開いた。
「うん、違うよ。ごめんね、突然で。実は、速水くんと話したいことがあったんだ」
「俺と?」
「うん。…私が誰の彼女か、知ってるよね?」
「え、あ、はい。厳、厳の彼女だと、聞いています」
悠真は「厳」と呼び捨てにすることに、一瞬躊躇した。厳の彼女である伶奈に対して、親しげな呼び方をすることが、なんとなく畏れ多い気がしたのだ。
「うん、そうだよね。だから、速水くんと話してるのって、ちょっと変だなって思ってるかな」
「いえ、変だなんて…ただ、何で俺に話しかけてくれたのかな、と」
その質問こそが、悠真の頭の中で渦巻いている本質だった。学園の女王様と、学園の片隅のインキャ。接点は厳との関係程度の二人が、なぜ今、図書室で対面しているのか。
伶奈は、これまで保っていた穏やかな微笑みをわずかに曇らせた。その表情は、一瞬にして図書室の光を吸い込んだかのように、憂いを帯びたものに変わった。
伶奈は周囲をちらりと見渡した。誰もいないことを確認すると、彼女は声をさらに落として言った。
「あのね、実は…大嶽くんのこと、速水くんに聞きたかったの」
「厳のことですか?」
「うん。速水くんと大嶽くんは、幼馴染なんだよね?小さい頃からずっと一緒だって、本人から聞いてるから」
悠真は頷いた。
「はい。幼稚園からずっと」
「そうだよね。じゃあ、速水くんが一番、大嶽くんの性格を知ってる」
伶奈は、まるで何か重いものを吐き出すかのように、深呼吸した。そして、悠真の目を見て、不安げに続けた。
「私、最近、大嶽くんといると、ちょっと息苦しくなっちゃうことがあって…」
「息苦しい?」
「うん。彼はすごく優秀で、生徒会長だし、本当に尊敬してるんだ。でも、時々、彼の『絶対的なところ』が、私には少し怖く感じるの」
悠真は言葉を失った。
彼の知る厳は、確かに傲慢で独断的なところがある。しかし、学園のトップに立つ者は、多少なりともそういった側面を持つものだ。厳と付き合っている伶奈が、今更そんなことを言うのは意外だった。
「あの、具体的に、何かあったんですか…?」
悠奈の問いかけに、伶奈はハッとしたように唇を噛んだ。彼女は両手をきゅっと握りしめ、その美しい瞳が潤んでいるように見えた。
「ごめんね、こんな話、速水くんにするべきじゃなかった。でも、誰にも言えなくて…」
「そんなこと、ないです。俺でよければ、聞きます」
悠真の心に、ある感情が湧き上がった。それは、この美少女の庇護者になりたいという、インキャである自分には不釣り合いな衝動だった。いつもは目立たないようにしている彼だが、困っている人を見捨てることはできない。ましてや、学園で最も華やかな存在である彼女が、こんなにも弱い表情を見せているのだ。
「ありがとう、速水くん…あのね、実は、大嶽くんに、速水くんのことを話したら…」
伶奈は一度言葉を切り、喉を詰まらせるようにして言った。
「『俺の前であいつの話をするな!』って、すごく怖い声で怒鳴ったの」
悠真は、耳を疑った。
「…え?」
「最初は冗談かと思ったんだけど、私が『どうして?』って聞いたら、『あいつは、俺の言うことだけ聞いていればいいんだ。余計なことを考えるな』って。それ以来、速水くんのことを話題に出すと、すごく機嫌が悪くなるの。まるで…速水くんが、彼の秘密の何かを知っているみたいに」
頭の中で、幼馴染の厳が発したとされる言葉がこだまする。
『あいつの話をするな!』
ありえない。厳と悠真の関係は、彼がどれだけ傲慢になっても変わらない、固い絆だと信じていた。厳は、悠真の存在を「俺の幼馴染」として利用することはあっても、公衆の面前で「あいつ」と突き放すようなことはしないはずだ。
「そんな、厳が…?」
「信じられないよね。でも本当なの。だから、私がこうしてこっそり速水くんに会いに来たのも、大嶽くんにバレたら、また怒られちゃうんじゃないかって、ちょっと怖くて」
伶奈は、不安で震えているかのように肩をわずかに震わせた。彼女の演技が、悠真の心に深く刺さる。
(厳は、そんなことを言う男じゃなかった。確かに最近は距離ができたけど、俺たちはずっと一緒にいた。一体、厳に何があったんだ…?)
悠真は、幼馴染の厳に対する信頼に、初めて深い亀裂が入るのを感じた。厳が学園の権力者として変貌していく姿は見てきたが、その影響が、彼の唯一の幼馴染である自分にまで及んでいるとは、夢にも思わなかった。
「ごめんなさい、速水くん。変なことを聞いちゃったね。大嶽くんの幼馴染に、彼の悪口を言うなんて、最低だよね…」
伶奈は、俯きながらそう言って、謝罪した。
「い、いえ!そんなことないです!俺の方こそ、厳が…その、あいつが、桜庭さんにそんな冷たい態度を取ってたなんて、知らなくて…」
悠真は、自分が厳に対して「あいつ」という強い言葉を使ったことに気づき、さらに動揺した。しかし、彼の心はもう、厳の味方ではいられなかった。目の前で困っている伶奈の姿が、彼の正義感と庇護欲を強く刺激していたからだ。
「俺は、厳のことは、もう昔みたいによく知らないのかもしれないです」
悠真がそう言うと、伶奈はゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳はまだ少し潤んでいたが、その口元には、先ほどまでの不安を吹き飛ばすような、太陽のような満面の笑顔が浮かんでいた。
「よかった…!」
「え?」
「やっぱり、速水くんに会えてよかった!話を聞いてもらえて、本当に安心したの」
その笑顔は、あまりにも美しく、そして無防備だった。学園の誰もが羨む美貌が、今、自分一人に向かって、心からの安堵を表している。
インキャで目立たない存在の悠真は、人生で一度も、女性からこれほどまでに強く、純粋な好意の眼差しを向けられたことがなかった。
(やばい、不覚だ…)
悠真の心臓は、まるで全力疾走した後のように激しく鼓動し始めた。顔に熱が集まるのを感じ、彼は必死で平静を装おうとした。彼女の安堵は、あくまで「話を聞いてもらえたこと」に対するもので、恋愛感情ではない。そう自分に言い聞かせた。
だが、一度芽生えた感情は止まらない。学園のトップカーストである幼馴染の彼女が、自分に秘密を打ち明け、自分だけに見せる笑顔を見せた。この状況は、彼の平凡で退屈な日常を、一瞬でドラマチックな舞台に変えてしまった。
「あ、ありがとう、ございます。少しでも、桜庭さんの力になれたなら…」
「もちろんなったよ!本当にありがとう、速水くん」
伶奈は、立ち上がり、スカートのシワをそっと払った。
「もう時間もないし、私も長くここにいると、大嶽くんに怪しまれちゃうかもしれないから、もう帰るね」
「…はい」
「でも、また、話を聞いてくれるかな?」
「え、あ…」
悠真が戸惑っている間に、伶奈は彼の顔をじっと見つめ、もう一度強く微笑んだ。
「じゃあね、速水くん」
そう言って、彼女は図書室の奥から、光の中へと消えていった。
悠真は、彼女の去った後も、しばらく動くことができなかった。対面に置かれた椅子は、まだ彼女の体温が残っているような気がした。
(厳は、俺のことを『あいつの話をするな!』って言った。桜庭さんは、俺に助けを求めて、満面の笑みをくれた)
図書室の静寂が戻ってきた。しかし、悠真の心の中は、もはや静寂ではなかった。
幼馴染への強い不信感と、学園一の美少女に対する予期せぬときめき。二つの矛盾した感情が、彼の心の中で渦を巻き始めている。
彼の平凡な日常は、今、親友の彼女によって、完全に破壊され、そして、新たな章が開かれたのだ。
人物紹介① 速水悠真
身長 173cm
誕生日 6月11日
年齢 17歳
好きなもの ラノベ 漢詩、和歌の創作・鑑賞 女の子
苦手なもの 陽キャ 女の子 生々しい小説(救いがないとか。)
The・インキャみたいなやつ。『俺もこう言うこと憧れるな』・『こんなふうに俺はなる!』みたいに思って、それを目指してる自分がかっこいいと幻想して、実際には何もやらない。その結果、努力をして上に立った厳に置いてけぼりになったのに、『自分はあいつの引き立て役じゃない。』とか言うわけわからん子。 何したいんだろ?こいつ。




