第二話 ③
「ジン様、これを!」
笑顔のウルが、重ねた両手の平に何かを包み込んで駆けて来た。
庭に設えた洋卓には玻璃の茶器が一式と、白い布がかけられた籠、牛乳を満たした瓶、洋杯が一つ置かれている。椅子に座して香草茶の香りに安らいでいたジンは明るい声の方へ意識を向けた。随分元気になったな、と思うと、自然と頬が緩み目元が温かくなる。
癒え切らぬ傷に苦しめられ、寝台から下りる事が出来なかった数日、ウルの眼は陰鬱な色を帯びていた。名も来た所も忘れ、思い出そうとすると酷い頭痛に苛まれ、それなのに心は焦燥感に駆られている――その様子を前にジンの心は落ち着かず、何か欲しい物は無いかと尋ねると、ウルはぽつり、走りたい、と呟いた。
まだ走れるような状態では無かったが、分かったと応じたジンはウルに肩を貸し、外へと連れ出す事にした。
ゆっくりと玄関の扉を潜って広い草原を見渡すと、ウルは無意識に首を捻った。二、三度鼻先で空気を味見して後、思い切り息を吸い込む……その鼻腔で何をか感じ取った様子で一気に目を輝かせると、支えていたジンの肩を突き放して突然駆け出した。体が追い付かずにすぐに転んでしまったが、草まみれになりながらも尾を振り笑うウルを見てようやく、ジンの心も落ち着いた。
その日から毎日、ウルはほとんど一日を外で過ごした。足元をふらつかせながらも慎重に館の周囲を歩き、散歩の範囲を草原から森へと広げて行く。神境に満ちた神力が肌に合ったのか、見る間に体力も回復して楽々木の頂上にまでも登れるようになった頃……〝仕事をしたい〟と言い出した。その申し出を受け、ジンは簡単な作業――掃除や薬草摘みなどの雑事を仕事として与えていた。
「おかえり。なに、なに?」
命の恩人と自分を慕うウルを、ジンは大切に扱った。当然、命令の為でもあったが、記憶を失った事に思い悩みながらも真摯にここで暮らそうとする純粋な存在を慈しむ気持ちが生まれていた。
ジンのすぐ側に来ると、ウルは重ねた両手の平を開く……陽光を反射して無数の煌めきが放たれる。
大輪の花に見えたそれは、全ての花弁が淡い紫色の水晶で出来ていた。八重咲きに広がる結晶は中心から花弁の先へと薄く色調を変え、透明な先端で光を揺らす。その美しさに、ジンは目を見開いた。
「これは……紫水晶、だね。どうしたの?」
「石妖がくれたんです。花冠のお礼に」
「石妖に会ったの? あの娘、人見知り、凄いんだけど……」
石妖はこの神境に住まう妖の一種で、白い着物を着た女の童の姿をしている。ある神境で消えかけていた所を拾い、ここに住まわせる代わりに水晶を集めさせているのだが、大岩に姿を潜ませたまま滅多には姿を見せない存在だ。森の少し拓けた所――地面が無数の小石に覆われた広場に住まいがある。そこで水晶を拾い集めるのが、今日のウルの仕事であった。
ジンは手渡された紫水晶を玻璃の茶托の上に置いた。その中に神力を水のように注いで満たすと、洋卓の真ん中に置いて指先でつつく……と、まるで重さを無くしたように紫水晶の花は水に浮かんで揺れた。
既にジンが〝神〟であると聞かされているウルは、目の前の不思議に一瞬、目を奪われたが、視線はすぐに卓上の籠へと移された。
「偶然なんですけど……」
「うん。あ、食べながらで良いよ」
腹の虫の音に、くすりと笑いながらジンは言う。少し恥ずかしげな表情を見せてから、ウルは籠に掛けられた布を取った。野菜と肉がたっぷり挟まれた三明治に歓声を上げると、いただきます、と手を付ける。美味しそうに一つ、二つ、あっという間に腹に納め、ごくごくごくと牛乳を飲み干してからようやく話し始めた。
今朝、ウルは森の広場で小さな水晶を拾いながら、ふと、広場に鎮座する大きな岩を割れば更に大きな水晶が取れるのではないか、と思い付いたらしい。
「それで、金槌で思いっ切り叩こうとしたら、いきなり岩の口が開いて……あの娘が出てきたんです。払い除けてくれたから当たらなかったけど、ヒドく怒らせてしまって……腹に頭突き食らっちゃいました。あ、もう痛くないんで大丈夫です」
ジンの曇った表情を汲んで、ウルは苦笑いしながら言う。
「あれは石妖の寝床みたいな物だから……ああ、言っておけば良かったねえ。まさか姿を見せるとは思わなくて……ごめんね」
謝るジンに、頭を左右に振ってウルは話を続ける。
「初めは謝っても許してくれなくて……でも、草原で花冠を作って、頭に乗せてあげたら機嫌良くなって。女の子って好きなんですよね、ああいうの」
指先をぺろっと舐めながらウルは言った。
「へえ……そうなんだ?」
こくん、と頷くと、ウルは柔らかく微笑む。
「多分……好きだった、女の子……が、教えてくれたんです、昔、作り方。ちょっとだけ……思い出しました」
無意識に肌の上から牙に触れながら、ウルは嬉しそうに言う。
「少しずつそうやって、全部思い出せると良いねえ」
「はい! あ、それで、花冠の代わりに、くれたんです。その……紫……水晶」
紫水晶の花は茶托の上でゆっくりと回りながら光を揺らしている。
「へえぇ……きっと、余程嬉しかったんだね」
ムスッとした表情で蹲っていた石妖の姿を思い出す。独り寂しくただそこに存するだけで、ヒトからは厄介者扱いされていた妖だから、誰かの好意が余程嬉しかったのだろうと自分まで何だか嬉しく思う。機嫌よく笑みながら指で紫水晶の花を突いて回すと、光が撒き散らされる。
「この紫水晶の持つ力……とっても良い。有難うね、ウルくん」
手を伸ばして頭を撫でると、ウルは擽ったそうに目を細めた。
「また来るか? って聞かれたんで、ジン様の指示があれば、って言っておきました」
「そう……指示が無くても、好きな時に行ってあげて。喜ぶだろうから」
はい! とウルは笑いながら返事をした。