第二話 ①
今回から、1日1エピソード投稿になります。
やたら狼に縁がある、と思いながら鼻の奥に纏わり付く血の匂いに僅かに眉を動かした。
足元に横たわる獣――恐らくは茶色の毛皮を持つであろう狼は血と泥に塗れた塊と化して地に落ちている。特に頭から多く血が流れているようだ。
〝新しい世界の住人を迎え入れよ〟
二つ目の命令と共に神境の端に現れたのが、この狼だった。
〝新しい世界〟の意味は分からなかったが、〝迎え入れよ〟と言う事は、このまま死なせては不味いだろう、と座り込んで狼を腕に抱く。その身は酷く冷たく濡れている。
半開きで荒く浅い息を吐く口を見て気付いた……牙が無い。上下に二本ずつある筈の犬歯が無かった。随分前に抜かれたようで、歯肉に傷は無い。
不思議に思いながらも、大きく自分の口を開け、血塗れなのにも構わず狼の鼻面をぱくりと咥えた。
肚の底に湛えられた神気を神力と成し、己の喉から口、口から狼の体内へと流して行く……細い糸を撚り合わせるようにして少しずつ、少しずつ。狼自身が持つ力に触媒となって働きかけ、途切れかけた生命の糸を繋ぎ止める……癒しの力を遍く全身に巡り渡らせて行く。
しばらくして、ぷは、と口を離すと咳き込んだ。目の端を何かが掠めちらとそちらを見る。この狼に神性は感じなかったが、それでも夥しい血の量に惹き付けられたらしい魍魎の影が、神境の外に揺らいでいる。
グウゥゥ……
唸り声の方へと顔を向けると、狼が灰色の目を薄く開いてこちらを見ていた。視線がかち合うと、大きく頭を振って吠え声を一つ、上げる。開いた口には鋭い犬歯が再生されている。
もう一つ吠えた途端、狼の眼が輝いた。光は不思議な力と成ってゆるゆると全身を満たして広がり、獣身を形作る輪郭を溶かして行く。
見る間に狼であった存在は姿を変えた――茶色い短髪に痩せた体の少年に。歳の頃は十五、六と言った所であろう――ヒトであれば。
変化の途中で力尽きたのか、頭に狼の耳、腰には尾が垂れた半獣の姿のままで、再度、意識を失ってしまう。
どうやら静かに眠り込んでいる表情を確認すると、安堵の吐息を漏らして少年の頬を撫でる。
「穢れを清めて……この子を洗って……きちんと寝かせてあげよう」
少年を抱いたままですっと立ち上がると、ジンは為べき事に取り掛かった。
とく……とく……とく。
とくり……とくり……とくり。
どくどくどく。
体の中へ色んな律動で何かの力が流れ込んで来る……底の無い器に次々と吸収されていく。肉体を覆う繭の糸口から伸びる一本の糸――無数に枝分かれしたその先には無数の白い繭が在る……力の源泉はそこからだと知る。
目を閉じて、本体と入れ替わった時の感覚を思い出していたが、ふぅっと息を吐いてジンは目を開けた。白一面の部屋は不規則に明滅し、仄かな光の粒が本体へと向かって流れ込み続けている。時々一斉に光は止み、真っ暗闇に包まれる。
ぼんやりと場の空気に心地良く浴していたが、明るくなった瞬間、降る人影に気付いて驚いた。
見上げた空間に、女性が浮いている――緩やかに波打つ赤い髪は美しく成熟した裸体を覆いながら足元まで漂い、金色の瞳は半眼に開かれたまま、透明の繭に包まれている。僅かに微笑む唇から覗くのは牙――まるで標本のような印象にぞくりと肌が粟立つ。しばらく観察をしてみるが、意識は無いようで毫も動かない。あれは何だろうと訝しみながらも、ジンは本体の籠る繭に向き直り、手を触れた。目を閉じて額で凭れかかる。
狼の少年を無事に保護したと言う報告を終える……と、情報が流れ込んで来る。ずきり、頭痛に目元を歪めながらも、その口元は自然と笑んでいる。一気に脳裏に流し込まれる映像――
狼の少年と赤い髪の少女の出会い。
時が過ぎ、成長が止まる少年と、大人になり人妻となる少女。
更に時が過ぎ、戦死通知を破り捨て夫を探しに旅立つ彼女と、狼に変化し彼女を追う旅の途次で銃弾に倒れる少年。
最後に映ったのは美しい空や海や大地を持つ世界――
全ての情報を送り終えると繭は〝行け〟と命じるかのように額を跳ね返す。その反動で少し首を仰け反らせてから、ジンはがくりと首を折った。繭に手を置いたままずるずるとその場に両膝をつく。荒い息を整えようと肩で息をしながらも情報を整理した。
本体は壊れた世界を礎に〝新しい世界〟を創り、そこに新たな住人を迎え入れようとしている。
異世界から招いた赤髪の女性は〝新しい世界〟の住人になると承諾して眠りに就き、世界の完成を待っている。あの少年からも承諾の返事を貰わなければならない。
そこまで考えると首を擡げて立ち上がり、ジンは少年の元へと転移した。