第一話 ③
神境の端に反応を感じ、ぴんと背筋を伸ばした。
眷属なんかよりも研ぎ澄まされた気配に、これは神だとすぐに気付いた。慌てて胸元から鏡を取り出し、映像を紡ぐ。
その姿を見た刹那……思い出した。この男と出会った事をすっかり忘れて居た事を。
あの時と違い、身につけている衣の色が白ではなく銀鼠、結い上げた黒髪は一部下ろされ、漆塗りの黒い簪でまとめられている。
神境に踏み入る手前で留まり、男は大声を上げた。
「主に是非ともお会いしたい!! 入っても構わんか!?」
神境の内側まで威厳ある声が響く。
男の声に揺さぶられ、ジンは体が弾かれたように立ち上がっていた。直ぐにでも本体の元へと逃げ込み、命令を貰いたい気持ちになったが、ぐっと爪を手のひらに食い込ませ思い留まる。深く息を吸って体内の神力の流れを整え、口から長く細く息を吐き出すと僅かに目を細め、鏡へと視線を戻した。
落ち着きを取り戻し様子を眺めると、男は仁王立ちのまま大人しく返事を待っている。
「……侵入してくる様子はない……神としての礼儀を持って、会いたいと言っている……」
涼やかな声で考えを口に上らせ、暫し悩んで黙り込む。
「……僕があの時の者だとは分からない筈だし……断る方が、怪しまれる、か」
決断したジンは、男の目の前の結界を大きく開いた。待ち兼ねた様子で男は大きく一歩を踏み出し、神境へと入る。
「お招き、感謝する!」
大きな口で嫌に嬉しそうに笑い、男は両手を胸の辺りで重ねて一礼した。
館の中には入れたくないと思い、少し手前の草原で男を待つ。やがて目の前に現れた男は、ジンを見るなり笑顔を歪めた。そのままこちらを凝視し、ぴたりと動きを止める。
この男は初対面の相手にはいつもこうなんだろうか?
そう思いながらもジンはにっこりと作り笑いを浮かべた。
「初めてお目にかかります。私は賦神と申す者。どうぞジンとお呼び下さい」
愛想よく声を出したつもりだったが、男は更に眉を顰める。
さすがに戸惑いを隠せず小首を傾げると、ようやく男は口元を僅かに緩めた。
「儂はオオノ神と言うモンだ。改めて、お招き感謝する」
「わざわざ、僕の神境まで御出くださった……御用向きはどう言った事でしょうか?」
「いや、何……」
続きを言い淀み、ほんの僅かに沈黙の時が流れた。
「……儂は各地の神境を巡っておったのだが、眷属どもの間でお主の名が評判でな。一度、会うてみたくなった」
「左様でしたか……」
「一献、どうだ?」
手に提げていた陶器の酒瓶を掲げあげて見せ、オオノ神は笑った。カラカラと音が鳴る。酒瓶の首に結え付けた麻紐の先に盃が二個ぶら下がり、重なり擦れ合っている。敵意のない様子に、ジンは内心、安堵した。
「いいですね。どうぞこちらへ」
作り笑いは崩さないまま、館の前庭へと案内する。いつもぼんやりと空を眺めている場所だ。
オオノ神は館を覆う大樹を見上げながら大人しく後を着いて来る。ジンが椅子を勧めると、酒瓶を石造りの円卓に置いて腰掛けた。
ジンはいつもの自分の席に着く。普段眺めている景色の中に見知らぬ男が居る……不思議な感覚だった。
オオノ神は館の背後に広がる森と空を眺めてから酒瓶の麻紐を解き、盃をそれぞれの前に置いた。
「乾杯、と行きたい所だが」
そう前置きすると、オオノ神は真剣な表情に変わった。柔らかな印象の神力が一気に凛と張り詰める。
「実は、儂はある女神を探しておってな。天神界で見初めたのだが……図体の大きい儂が怖いせいか逃げられてしもうてな……」
どくん。
鼓動が跳ねたが、ジンは何とか平静を装った。視線はしっかりと合わせたままで応える。
「左様……ですか……」
「かの女神は可憐な声で〝ブシン〟と名乗った故、ここの主だと確信して訪ったのだが……お主はどう見ても男……」
オオノ神は重ねた両手に盃を包み込み、覗き込むような格好で俯く。
戸惑ってジンが黙していると、オオノ神は、だが、と呟き、上目遣いに見詰めて来た。
「お主に面差しが似ておる……気がする」
「な、にを仰って……」
どくどくどくん。
鼓動が平静を失い、激しく胸を打つ。
「もし……何か知っているなら教えて貰いたいモンだが……」
真実を見透かそうと力強い琥珀色の目が視線をぶつけてくる。大きな手の中で盃がミシ、と音を立てる。
「この神境で眷属の相手をしているだけの僕が、知る筈もございません」
負けまいと敢えて視線を受け止めて堪えていたが、声は、体は僅かに震えていた。
「では……儂の女神は何処におる……」
すっと視線を外したオオノ神を眺める……目元が僅かに光っている。
泣いている? たったの一度、ほんのすれ違い程度の出会いだったのに?
そう驚いていると……わずかにミシリ……ピキリ……罅が入る音が鳴り続け、一気に握り込まれた拳から、押し潰される音が鈍く響いた。砕けた陶器の粉がパラパラ手から落ちる。
「馬鹿っ!」
ジンは咄嗟に立ち上がり、素早くオオノ神に近付いた。彼の手に己の細い手を重ねると、盃を握り潰した大きな拳を解いて開かせる。
「すぐに傷を……」
掌には傷ひとつ無い。そうか、と気付いてジンはそのままの恰好で固まった。
「この程度で傷付くほどやわではないわ」
「流星禍の妖から逃れ得た程の……貴方様の血が流れれば、どのような魍魎が湧くかと……慌ててしまいました。大事な我が神境故、お許しを……」
オオノ神はジンの手を払い除けた。しかし見上げて来る顔はにやにやと綻んでいる。
「男に手を握られる趣味は無い。が……」
くく、と声を漏らすと大声で笑い出した。
怒るか呆れるかと思っていたのに、読めない行動にジンは笑う男の傍で立ち尽くす。
やがてオオノ神は目元の涙を手の甲でぐいと拭き取り、すっかり落ち着いた目でジンを見た。
「馬鹿などと怒鳴られたのは久しぶりだ。面白い奴だな」
「若輩者故、大層失礼致しました。神の血が流れるかと……」
ジンは両手のひらを胸元で重ねて深く頭を下げる。
「魍魎どもの好物だからな。それより、代わりの盃はあるか?」
謝罪にも全く意に介さない様子で、オオノ神は指で破片を弄ぶ。
「お任せ下さい」
ジンは両手をふわりと丸めて重ね、破片を覆い包み込む……僅かな神力が流れる……やがてゆっくりと指が一本ずつ開かれると、そこには元通り、罅一つない盃が、在った。
おお、と感嘆の声を上げ、オオノ神は盃を指で持ち上げた。空に透かせるように眺めてからジンの顔を見る。
「すっかり元通り、か……便利な力を持っておるな」
「僕は、〝力を与える〟者ですので」
にこり、笑ってからジンは元の席へと戻り、静かに椅子に腰を下ろした。
「そうなのか。それで眷属どもが……っと、続きは飲みながら聞こう」
はい、とジンが酒瓶に手を伸ばしかけるのを手で制し、オオノ神は己の盃に酒を注ぐ。ジンに盃を持つよう促すと、手ずから並々と酌をしてみせた。
「神違えの出会いに乾杯だ」
盃と盃が軽快な音を鳴らし、小さな宴が始まった。
ジンはここに訪れる眷属の事を話し、オオノ神は自身の神境の日常など他愛のない話をしていたが、やがて烏の鳴き声が高く低く重なり始めた。
「おお、もう日暮れ時か。スマンが今宵は森を仮寝の宿にしても良いか?」
「宜しければ我が館にお招き致しますが……?」
内心それは避けたい所だが、まさか野宿をさせる訳にもいかない。客間に泊めようと考えながらそう答える。
「いや、森が良い」
不思議な御方ですね、と言いながらもジンは首肯する。
礼を述べてから、そう言えば、とオオノ神は表情を引き締めた。
「この神境はやたらと妖の匂いがする……大物が潜んで居るかもしれん……」
少しどきりと胸を鳴らせながら、ジンは落ち着いて説明する。
「〝匂い〟とは面白い仰り様ですね。僕は眷属を持たないので、妖を使役しています……そのせいでしょう。ほら」
すっと屈むと、両手で掬い上げる仕草をして何かを持ち上げてみせた。そこにはぼんやりとした影のような、小さな人が群れているのが見て取れる。青白く仄かに、強く、弱く、光り、踊っている。
「樹霊です。神境の草原や森の管理を任せていまして……他にも幾種類か居ります」
ふわり、羽毛のように舞い落ちると樹霊は姿を消した。
「……眷属が居らんで、お主、寂しくはないか」
そう問われて、ジンはきょとんとした。
寂しい? 意味は分かるけれど、本体と繋がっている自分には無縁の感情だ。
「……日々、忙しくしておりますから」
そうか、と何故か切なそうな笑みを浮かべると、オオノ神は森へと向かい歩き出す。
「あぁ、そうだ」
ふと、思い付いたように振り返ると、笑みながら告げる。
「儂の事はオオカミと呼べ」
くるり、背を向けた途端――姿が変化した。
銀鼠の衣そのままの毛皮を持つ、狼。
淡い光を揺らしながら一瞬で森の中に消えた。
「狼の……神……」
神々しいとはこのような存在の事を言うのだろう。
そう思いながらジンは、暫く惚けたように森の方を眺めていた。