第一話 ②
さやさやと風がそよぐ……生まれたての草と花の香が鼻を擽る。
前庭の円卓に頬杖をついて、青年は凛々しい表情で己の守護地――神境を眺めていた。風に波打つ草原に浮かぶ黄、紫、白は花。長く伸びる一本道を視線で追うと、うんと先で草原は途切れて空の色が映える。
その美しさに眉尻が緩んで下がり、ほうっと息が漏れた。
ようやく一仕事終えた青年――いや、青年へと風貌を変えた分身は、この一月の事を思い返していた。
一月前……眠りから覚めた分身に、本体は神名を与えた。
『賦神』
不思議な――金属音のような声音が重なり響き合う。音は胸元から身体の中へ入り込むと、すぅっと肚の底へと吸収され……消えた。驚いて瞼を閉じ、開けた瞬間……ぽつんと立って居たのは、元居た岩山。
寂しい景色にどこか寒さを感じたが、体は温かい力に満ちていた。目を閉じて体の中へと意識をやる……全身を力強く巡っているのは、確かに神力に違いない。
返還し損なった主神の神力が、己の体を形造る力として息づいていた。頭から肩、両の腕、胴、脚……足の爪先まで追ってみた時、素足で接している岩肌に心地よい温もりを感じた。
荒廃し朽ち果てた地かと思ったけれど、まだ生きている。僕の力を欲している。僕も同じ……君が欲しい。
地の気と神の想いが重なった時、力の奔流が生まれた。神の器に貯えられた潤沢な力は惜しげもなく岩山へと注がれて広がり、それを追うようにして緑の色が広がって行く。
草が生え、花が咲き、木が茂り、泉が湧く。
主神の力を源泉に本体の能力を行使し、想像した通りに創造していく。思う儘に力を振るう楽しさに、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
長い長い時の果て……完成した緑の山をとてつもなく大きな半球状の結界で包み込むと、力溢れる神の領域――賦神の神境が完成した。
満たされた心持でようやく目を開けると、無意識に己の身を抱き締めていた。衣の上からでも見て取れる豊かな膨らみ……その柔らかさに不快感を禁じえず、女神の白い衣を脱ぎ捨てる。
今度は簡単。
余裕の笑みを浮かべると、ひょい、としゃがんで指で衣をつつく。変化する様子も見て取れぬ程の刹那、衣は別の形へと作り変えられた。
その中から白い帯状の布を拾い上げて立ち上がる。しゅ、しゅ、と衣擦れの音を立てながら、器用に己の胸に緊く巻き付け偽の胸板を作ると、下穿きを穿く。次に、瑠璃色の生地に銀糸の刺繍が施された長衣を身に着けた。
更に変化の術を行使する……本体を模した青年の姿に扮してようやく少し落ち着き、与えられた名を声に出した。
「ぶ、し……ん?」
涼やかな青年の声は何故か酷く不快感を含んでいた。
既に〝神〟として在るにも関わらず、心は分身である事を強く望んでいると気付く。
「賦神……」
本体がくれた名が大事でない訳はない。
「ぶん、しん……ジン……」
せめて末の言葉の音を濁らせ、賦神〝ジン〟と名乗ろうと決めた。ほうと安堵した途端に全身から力が抜けて、作ったばかりの円卓にふらりと手をつく。
体は疲労感に覆われているのに、自然と笑い声が漏れた。笑いながら、ふらついて白い石の丸椅子に腰を落とす。やがて笑いが収まってから、両手で頬杖をついた。
そうして今、お気に入りの神境を分身――ジンは愉しく眺めて居たのだが……突然の耳鳴りに眉を顰めた。
「……うん。行くよ」
小さく呟き席を離れて振り返る。そこには巨樹に半ば飲み込まれた白壁の館があった。三階層を擁する館の上に聳える木の頂は、白い靄に隠されて見えない。
ジンは軽い足取りで戸口へ向かうと手で扉を開け、自分に命令をくれる愛しい存在の元へ向かった。
〝流星禍の妖〟
神の眷属たちが口々に怨嗟の言葉をぶつけていたその存在――それこそが本体の事だと知った。
『あの夜、流星に化けて我が主を襲った憎い妖め』
『神力を喰い散らかして何処へ姿を暗ました』
『探せ、探せ、探して主の力を取り戻せ』
「可哀想に」
手のひらに持つ銅鏡を眺めながらジンは無感動に声を上げた。首に掛けた銀色の鎖に繋がれた銅鏡――その鏡面には、各地の神境の映像が結ばれている……目まぐるしく場面を変えながら。
〝この世界を元通りに〟する為、ジンは世界を見ようと思った。
あの鏡が良い。
主神の御神体を思い浮かべて作った鏡――その形も能力も、思う通りの物に出来た。そうして完成した鏡で世界を見た後……つん、と鏡面をつついて映像を消した。鏡面に映る自分の顔を一瞥し、衿口から胸元へと鏡を仕舞う。腕を組み、天井を仰ぐようにして背筋を伸ばし、一呼吸して瞼を閉じた。
本体はこの世界の存在ではない。
元居た己の世界を吸い付くし滅ぼして後、暴走した本体は世界を隔てる壁をも突き破り渡り、近しい異世界であるこの世界の神々の力をも吸収してしまった。
但しその吸い方は雑で、眷属が〝喰い散らかした〟と表現した通り、各地の神境には神力の残滓が散らばっていた。眷属たちは〝姿を暗ました〟妖を探しながら、物言わぬ御神体の姿と化した主の神力を探し集める日々を送っている。
最初の失敗から、急激な神力の返還は御神体を破壊してしまう事を学んだ。更に、主神の知識から、罅一筋、小傷一つ無い状態にまで回復させる必要があると情報を得た。
ゆっくりと、少しずつ、返還しよう。眷属たちは主の力を探している訳だから、撒いてやればいい。やがて神々の御神体が回復した時、一気に全ての神に力を返せばいい。
そこまで考えてジンは瞼を上げた。
白漆喰の壁を温かく照らす日の光に心が安らぐ。
屋根裏部屋の窓からしばらく青空を眺めていたが、さて、と声を出して立ち上がった。
川童と呼ばれる河川神の眷属たちは、朧に光る円形の身体を明滅させて、川の上をふわふわ浮かんでいた。他の眷属同様、御神体と化した主を神殿の祠へと祀って御守りし、その神力を探しに神境を出ていたのだ。
その川童たちの前に、ジンは姿を現した。
目の前の存在が〝神〟である、と即座に認識すると、いくつもの光が整然と半円形に並んで囲み、ぴたり、動きを止めた。たとえ主でなくとも神という上位の存在には崇敬の念を示すのが眷属にとっては自明の理。光を小さく速く明滅させて敬意を払っている様子であった。
中央から前へと進み出た一際大きな光だけが、真白い輝き――河川神の力を内包している。それが眷属の長だと悟ると、ジンは厳かに語りかけた。
「我は賦神……ジン。力を与える者」
つい、と指を立てると、長に向ける。
「力を求むるならば来よ」
その背後に光の扉が開かれ、ジンはすぅっとその中に姿を消す。
長は躊躇う様子もなくぴょんぴょん跳ねて後に続き、光の先――ジンの神境へと招かれ消えた。
残された眷属たちはその場で待った。
やがて時が過ぎ、長が戻ると眷属たちは様々な色に明滅して喜んだ。河川神の神力が明らかに増し、煌々と輝きを放っていたからだ。
「更に主の力を集めし暁には我が名を呼べ」
ジンの声だけが響く――眷属たちは再び、整然と並んで淡く白い光を明滅させた。
その日から賦神ジンの名は少しずつ世界に広まって行く。神たる存在を盲目的に信奉する眷属たちはその名を口にし、ジンは己の神境に様々な眷属たちを呼び寄せ、神力を少しずつ返還して行った。
どうせ世界が元通りになれば僕は消える。復活した神々が不審に感じた時にはもう居ないんだから、自由にやらせてもらう。
己が〝流星禍の妖〟に連なる者だ、と、ばれる可能性は露とも考えなかった。
やがて眷属を招き入れる日々に慣れて来た頃……忘れていた男が現れた。