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第8話 魔王への執着、猿、吼える

 山崎の戦いは、もはや一方的な蹂躙じゅうりんと化していた。羽柴秀吉軍の猛攻の前に明智軍の戦線は完全に崩壊し、忠臣・斎藤利三も討死。謀反の首魁、明智光秀(人間・男)の周囲には、わずかな手勢しか残されていなかった。


「……ここまで、か……」


 降り注ぐ矢弾と、迫り来る敵兵のときの声の中、光秀は力なく呟いた。その顔には、もはや知将の面影はなく、深い疲労と、そしてどこか現実離れしたような、奇妙な静けさが浮かんでいた。


 そこへ、泥と血にまみれた羽柴秀吉が、鬼のような形相で馬を乗り入れてきた!


「明智光秀! 見つけたぞ! 覚悟!」


 秀吉は馬上から、憎悪に満ちた声で叫んだ。しかし、光秀は秀吉に視線を向けることなく、虚空を見つめ、恍惚とした表情で呟き始めたのだ。


「ああ……信長様……。聞こえますか……? もうすぐ……もうすぐですよ……」

「……何を言っている、貴様!」


 秀吉は眉をひそめた。光秀の様子は明らかにおかしい。正気を失っているのか?


「ふふ……これでようやく、貴方様は解放されるのです……。あの忌まわしい『魔王』の呪縛からも、俗世のしがらみからも……。そして、永遠に、私だけのものになる……。誰にも汚されぬ、至高の美しさの中で……ああ、信長様、信長様……!」


 その言葉は、もはや狂気の域に達していた。信長への忠誠心が行き着いた先は、主君を「救済」という名の独占下に置こうとする、歪みきったストーカー的な執着だったのだ。その粘着質で、ねっとりとした響きは、聞いているだけで背筋が凍るような気持ち悪さがあった。


 秀吉の全身の血が、怒りで逆流するのを感じた。主君(たとえそれが影武者であったとしても)への、あまりにも冒涜的な言葉。そして、自分だけが信長を理解していると言わんばかりの、その独善的な態度。


「貴様ぁぁぁぁぁ!!!」


 秀吉の怒りが、ついに限界を超えて爆発した!


「上様を! その汚らわしい口で語るなぁぁぁっ!!」


 秀吉は馬から飛び降りると、佩刀はいとうを抜き放ち、もはや抵抗する意志すら失っているかのような光秀へと、怒りのままに斬りかかった!


 ザシュッ!!


 鈍い音と共に、秀吉の一刀が光秀の体を深々と切り裂いた!


「…………あ……」


 光秀は、信じられないものを見るかのように、一瞬だけ目を見開いた。そして、その口元に、満足げなような、あるいは何かを悟ったような、奇妙な笑みを浮かべると、そのままゆっくりと崩れ落ち、動かなくなった。


「………………」


 秀吉は、血に濡れた刀を握りしめ、荒い息をつきながら、光秀の亡骸を見下ろしていた。憎しみは消えない。だが、同時に、言いようのない虚しさが胸に広がっていた。


 しかし、感傷に浸っている暇はない。秀吉は顔を上げ、残敵を掃討し、勝利の歓声に沸く自軍の兵士たちに向かって、高らかに叫んだ!


「逆賊・明智光秀! この羽柴秀吉が、討ち取ったりぃぃぃ!!」


 その声に応え、戦場全体から、地鳴りのような勝ちどきが沸き起こった!


「「「おおおおおおおっ!!」」」

「秀吉様、万歳!」

「上様の仇、ここに討てり!」


 兵士たちは抱き合い、涙し、天に向かって雄叫びを上げる。山崎の戦いは、秀吉軍の完全なる勝利に終わったのだ。


 ***


 秀吉軍は、討ち取った明智光秀の首を掲げ、意気揚々と京の都へと凱旋した。


 その報は瞬く間に都中に広まり、秀吉軍の帰還を、民衆は熱狂的に出迎えた。


「羽柴様だ! 逆賊を討ってくださったぞ!」

「これでまた、平和な世が戻る!」

「天下人! 羽柴様こそ、真の天下人じゃ!」


 沿道には鈴なりの人々が詰めかけ、秀吉の名を叫び、手を振り、中には感謝の涙を流す者もいる。道には色とりどりの花びらが舞い、まるで祭りりのような騒ぎだ。


 秀吉は、馬上から、満面の笑みでその歓呼に応えた。日の本一の出世頭。猿と呼ばれた男が、今や京の都を熱狂させる英雄となったのだ。これまでの苦労が全て報われるような、まさに人生で最高の瞬間。その高揚感と達成感に、秀吉の心は酔いしれていた。


(見たか! これが俺の実力よ! 上様がいなくとも、いや、上様がいないからこそ、俺はこの日ノ本を掴んでみせる!)


 その猿顔には、もはや卑屈さなど微塵もなく、天下人への道を確かに歩んでいるという、絶対的な自信が満ち溢れていた。


 ***


 一方、京の隠れ家。外の喧騒を窓から眺めながら、信長(少女・天狐)は、静かに金平糖を口に運んでいた。傍らでは、蜂須賀小六(大河童)が、ハラハラした様子で控えている。


 戦勝の報せは、既に彼女の元にも届いていた。


「……ふん、サルめ、ようやく一つ、山を越えたか。思った以上に、民衆の心も掴んだようじゃな。まあ、光秀程度の男に手こずるようでは、話にならんが」


 信長(少女)は、こともなげに呟いた。その紅い瞳には、秀吉の勝利など当然のこと、とでも言うような、絶対的な余裕が浮かんでいる。


(だが、これで終わりではないぞ、サルよ)


 彼女は、秀吉には聞こえぬ声で、心の中で続ける。


(本当の戦は、これから始まるのだ。織田家の跡目争い……柴田の鬼娘、丹羽の猫又、前田の犬娘……ふふ、役者は揃っておるわ)


 信長(少女)は、次なる舞台――清洲会議――で繰り広げられるであろう権力闘争を思い描き、妖しく、そして楽しげに、紅い瞳を輝かせた。


(せいぜい、踊るが良い。儂のてのひらの上でな)


 秀吉の栄光の影で、銀髪の魔王は、静かに次なる筋書きを描き始めていた。

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