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第11話 月下の黒猫、会議前夜の駆け引き

 尾張国、清洲城。日ノ本の命運を左右するとも言われる「清洲会議」を翌日に控え、城下町は諸国から集まった大名とその家臣たちで、かつてないほどの賑わいと、そして水面下の緊張感に包まれていた。誰もが、織田家の新たな秩序がどう定まるのか、固唾を飲んで見守っていた。


 その喧騒から少し離れた、城内の静かな一角。若狭から到着したばかりの丹羽長秀(猫又)は、月明かりに照らされた庭園を眺めながら、物思いにふけっていた。彼女の艶やかな黒髪ボブの下で、黒い猫耳がぴくりと動き、周囲の微かな気配を探っている。二股に分かれた長い黒い尻尾は、主の冷静な思考とは裏腹に、わずかな不安を示すかのようにゆっくりと揺れていた。


(……羽柴殿の勢いは、もはや止めようがないかもしれませぬな。山崎での勝利は見事。されど、あの男の野心は底が見えぬ。一方、柴田殿は……忠義に篤いが、いささか直情的に過ぎるか……)


 長秀(猫又)は、織田家の未来を冷静に計算していた。どちらにつくのが、織田家にとって、そして自分にとって最善の道なのか。彼女の緑色の瞳は、月光の下で深く、そして静かに輝いていた。そのすらりとした立ち姿、落ち着いた物腰は、政務に長けた有能な宿老のそれだが、同時に、どこか捉えどころのない、猫又としてのミステリアスな色香をも漂わせている。


「――これはこれは、長秀殿。このような月夜に、一人何を思案されておいでかな?」


 不意に、背後からかけられた声。振り返ると、そこには人懐っこい笑顔を浮かべた羽柴秀吉が立っていた。


「羽柴殿……。いえ、今は殿下とお呼びすべきですかな?」


 長秀(猫又)は、表情を変えずに静かに応じた。


「はっはっは、ご冗談を。某は、まだただの羽柴秀吉にすぎませぬよ」秀吉はそう言いながら、長秀(猫又)の隣に歩み寄り、親しげに彼女の顔を覗き込んだ。

「それにしても、長秀殿。今宵は一段とお美しい。月下の黒猫とは、まさに貴女のことですな」


 持ち前の人たらし術。しかし、長秀(猫又)はそれに乗るほど甘くはない。


「お戯れを、羽柴殿。それで、本日のご用件は?」


 冷静にかわされ、秀吉は本題に入った。

(ちっ、やはり一筋縄ではいかんな)


「単刀直入に申し上げよう、長秀殿。明日の会議、某にご助力願いたい。三法師様を擁立し、我ら宿老が力を合わせ、織田家を安泰に導く。これこそが、亡き上様への最大の忠義かと存ずる」

「…………」


 長秀(猫又)は即答せず、ただ静かに秀吉を見つめ返す。その緑色の瞳は、秀吉の言葉の裏にある真意を探っているかのようだ。


「柴田殿のお考えも、一理ありましょう。ですが、今の織田家には、力だけでなく、国を富ませ、民を安んずる知恵も必要。長秀殿、貴女ほどの才覚があれば、この国の宰相として、その手腕を存分に振るえるはず。わしと共に、新たな天下を見てみたくはないか?」


 秀吉は、さらに一歩踏み込み、長秀(猫又)のすぐそばまで近づいた。そして、彼女の肩に、そっと手を置こうとした。その視線は、月明かりに照らされた彼女のしなやかな体つきや、ゆらりと揺れる二股の尻尾へと、一瞬だけ注がれていた。


(……美しい……そして、食えん女だ。だが、それ故に、手に入れたい……!)


 秀吉の下心が、その視線にわずかに滲む。


 しかし、秀吉の手が肩に触れる寸前、長秀(猫又)は、ふわりと猫のように身をかわした。そして、悪戯っぽくもあり、しかし明確な拒絶を含む、にこやかな笑みを浮かべて言った。


「あらあら、羽柴殿。随分と距離がお近いですこと」


 その声はあくまで穏やかだが、緑色の瞳の奥には、鋭い光が宿っている。


「お戯れも結構ですが、今は国の行く末を決める大事な時。そのような下心は、お控えになった方がよろしいのではなくて? ……ねえ、殿下?」


 優雅に、しかしきっぱりと。彼女は秀吉の接近を、まるで柳に風と受け流すように、いなしてみせたのだ。大人の女性としての余裕、猫又としての捉えどころのなさ、そして簡単にはなびかない知性。その全てが、彼女の魅力をさらに引き立てていた。


「…………」


 秀吉は、一瞬言葉に詰まった。見事に一本取られた形だ。(……くっ、この化け猫め!)と内心で悪態をつきながらも、彼女のその態度に、ますます興味を惹かれずにはいられない。


 二人の間に、月明かりの下、静かで、しかし火花散るような駆け引きの空気が流れた、その時だった。


 城門の方が、にわかに騒がしくなった。松明の光が揺れ、怒声のようなものが遠くから聞こえてくる。


「申し上げます! 柴田勝家様、ただいまご到着!」


 伝令の兵士が、慌てた様子で駆け込んできた。


 ついに来たか――!


 秀吉と長秀(猫又)は、顔を見合わせた。鬼柴田の到着。それは、清洲会議という名の戦いの、本当の始まりを告げる合図だった。


「……さて、役者は揃いましたな」


 長秀(猫又)が、静かに呟いた。その緑色の瞳は、再び冷静な光を取り戻し、明日からの激しい権力闘争を、静かに見据えていた。

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