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第1話 本能寺、炎上。そして、猿は覚醒す

 そこは、焦土だった。

 黒く焼け焦げた柱が歪み、熱で溶けた瓦礫が散乱し、鼻をつくのは死と灰の匂い。かつて壮麗さを誇った本能寺の面影は、どこにもない。天下人の居城ですら、一夜にして灰燼かいじんに帰す。それが、この乱世のことわりか。


 羽柴秀吉は、泥と煤にまみれながら、その焼け跡の中心に呆然と立ち尽くしていた。数日前、備中高松から驚異的な速度で駆け戻ったというのに、全ては遅すぎた。主君・織田信長は、この地で燃え盛る炎の中、その生涯を閉じたのだと――。


(上様……なぜ、こんな……)


 込み上げるのは、怒りか、悲しみか、それとも虚無か。秀吉自身にも、もうよく分からなかった。ただ、焼け跡の奥へと、何かに引き寄せられるように足を進める。せめて、何か、主君の存在を示すものが残されていないかと。


 本堂があったとされる場所は、特に焼け方が酷かった。ほとんど全てが灰と化す中で、秀吉は不意に、一角だけが奇跡的に火を免れていることに気づいた。そこには、熱で歪みながらも、隠し扉のようなものが存在していた。


(……なんだ、これは?)


 警戒しつつも、抗いがたい力に導かれるように、秀吉は燃え残った扉をこじ開けた。


 中は、煤けてはいたが、不思議なほど清浄な空気が漂う小部屋だった。そして、その中央に――少女がいた。


 腰まで流れる銀の髪。血のように赤い瞳。雪のように白い肌。煤で汚れた簡素な小袖を纏っているが、その存在感は異様だった。何より、その頭部には、ぴくりと動く銀色の獣の耳が見え、背後には同じ色のふさふさとした尾がゆらりと揺れている。


(……狐……? いや、それにしては……神々しいほどの……?)


 秀吉が言葉を失い、立ち尽くしていると、少女はゆっくりと顔を上げた。その紅い瞳が、真正面から秀吉を捉える。子供とは思えぬ、全てを見透かすかのような、冷たく、そして絶対的な力を持つ者の視線。


 やがて、少女の唇が、静かに開かれた。


「…………サルか」


 鈴を転がすような、しかし妙に尊大な声。


「……遅かったではないか」


「………………は?」


 秀吉の思考は、完全に白に染まった。


 ***


 ――その邂逅かいこうに至る、数日前のことである。


 備中高松城下、羽柴秀吉の本陣。

 季節外れの長雨が降り続き、地面は泥濘ぬかるみと化していたが、秀吉の心は快晴そのものだった。彼が発案した前代未聞の水攻めは功を奏し、毛利方の名城・高松城は巨大な湖の中に孤立。城内の兵糧も尽きかけ、毛利輝元(猿妖怪?)からの和睦の使者が、日参する状況となっていた。


(くくく……毛利も終わりじゃ! 清水宗治の首一つで、備中、備後、美作の三国割譲……いや、もっとふっかけてやるか? この大手柄を引っ提げて上様の元へ戻れば、俺の評価はうなぎ登りよ! 次は柴田の鬼娘か? 丹羽の猫又か? いや、もはや俺に並ぶ者はおるまい!)


 秀吉は、地図の上に広げた自らの未来予想図に、ほくそ笑んでいた。一介の農民の子から、織田家随一の実力者へ。そして、その先に見えるのは――日ノ本の、天下!


「へい、親分! さすがの知略! この小六、心底恐れ入りやしたぜ! この調子なら、天下統一も目の前ですな!」


 傍らに控える腹心の**蜂須賀小六(大河童)**が、緑色の顔にお追従ついしょう笑いを浮かべる。頭の手ぬぐいが少しずれ、湿った皿がきらりと光った。


「おう、小六! お前もよくやった! この水攻め、お前の配下の河童どもがいなけりゃ、こう上手くはいかなんだからな! 終わったら、褒美に極上のきゅうりを……」


 秀吉が上機嫌で言いかけた、まさにその時だった。


「も、申し上げます! 京より、急報にございます!」


 泥まみれの伝令兵が、息も絶え絶えに本陣へと転がり込んできた。その顔は土気色で、尋常ではない様子に、秀吉の顔から笑みが消えた。


「……なんだ、騒がしい。落ち着いて話せ」


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。なぜか、背筋に冷たい汗が流れた。


「は……ははっ! それが……! あ……明智日向守様が……!」

「……光秀が、どうした?」


 伝令兵は、恐怖に引きつった顔で、言葉を絞り出した。


「――謀反!!」

「……なに?」


「京……本能寺にて……上様に……! 上様は……ご、ご自刃……なされた、と……!!」


「…………………………」


 一瞬、時が止まった。

 世界から、音が消えた。


 秀吉は、ただ呆然と、伝令兵の顔を見つめていた。何を言っているのだ、こいつは? 冗談か? 悪い夢か?


(上様が……? 死んだ……? あの……第六天魔王が……? 光秀に……?)


 理解が追いつかない。頭の中が真っ白になり、ぐらりと体が揺れた。


「お、親分!?」


 小六が慌てて支える。


(嘘だ……嘘だと言ってくれ……!)


 だが、伝令兵の絶望的な表情が、それが紛れもない現実であることを突きつけてくる。


 じわじわと、実感が恐怖となって全身を蝕んでいく。あの絶対的な存在がいなくなった? これから、どうなる? 織田家は? この国は? そして、俺は……?


 悲しみ、怒り、恐怖、喪失感……様々な感情が濁流のように押し寄せ、秀吉は立っていることすら困難になった。これまでの人生で経験したことのないほどの、絶望的な感覚。


(光秀……! なぜだ……! なぜ、貴様が……!)


 裏切り者への憎悪が、腹の底から込み上げてくる。だが、それ以上に、巨大な支柱を失ったことへの不安が大きかった。


(……どうすればいい……? これから、俺は……)


 秀吉は俯き、固く拳を握りしめた。震えが止まらない。涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。


(……いや、待て……)


 その時、絶望の淵で、彼の内に眠る野心と、乱世を生き抜いてきた生存本能が、鎌首をもたげた。


(……これは……もしかしたら……)


 そうだ、これは終わりではないのかもしれない。むしろ――


(――始まり、だ!)


 秀吉は顔を上げた。その猿顔には、もはや悲しみや恐怖の色はない。あるのは、燃え盛るような怒りと、そして、全てを呑み込むかのような、底なしの野心の光だった。


(光秀……! よくも……よくも上様を!!)


 秀吉は、天に向かって、心の中で咆哮した。


(この俺が! この羽柴秀吉が! 必ず貴様の首をね、そのむくろを犬に喰わせてやるわ!!)


 復讐の誓い。それは同時に、天下への道を自らの手で切り開くという、覚醒の雄叫びでもあった。


 猿と呼ばれた男の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

この小説はカクヨム様にも投稿しています。

カクヨムの方が先行していますので、気になる方はこちらへどうぞ。


https://kakuyomu.jp/works/16818622173444487859


もしくは・カクヨム・ケモミミ神バステト様・で検索ください。

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